アマツに伝わる鬼伝説。

それは右手を赤く染めた悲しい目の鬼の物語。





主の閨に呼ばれぬ夜はただ静かに、アサシンクロスは窓辺に軽く腰を掛け月を眺めていた。
ローグが残していった短剣を細い指が弄ぶ。

ローグもこの月の元で眠りに就いているのだろうか。

今すぐにでもローグに会いたいという欲望は消えることなく身体の奥底でくすぶり続けている。
ローグを己の手の内に閉じこめたい。
その思いは時に月夜の静けさのように、時に狂おしいほどの渇きを持って日々募っていく。

アサシンクロスを支配しているものを言い表すなら、それは執着。幼子が人形をねだって泣き叫ぶような貪欲な執着。
そして力の加減が分からず、己以外の痛みも分からず、平気で手足を引きちぎってしまうような冷酷なまでの無垢。

己の欲望のままに力ずくでローグを連れ戻すことは容易いことだった。ならば何故ためらうことがあるのか。

それはローグが時折見せる表情にある。
慈愛に満ちた目でマジシャンを、マジシャンをからかうチェイサーを、この世界を愛おしそうに眺めるのだ。
そして決まって幸せそうに目を細めやわらかく微笑む。

何がローグをそんな表情にさせるのか分からなかった。分からないから、アサシンクロスは怖いのだ。

アサシンクロスの未熟な心が必死に考える。
ローグを想って考える。
お前は何を求めている?
お前は何を欲している?

答えは未だ見つからない。





「輝夜姫だな」

眠りに就いたと思っていたハイプリーストの声に、アサシンクロスは振り返った。
その意味が分からず訝しげな視線を送る。

「月に帰った美しい姫君の物語だよ。今のお前のように毎晩月を眺めていたそうだ」

名を呼ばれアサシンクロスはハイプリーストが横たわる寝台へと向かった。
視線で指し示されベッドの端に腰を掛ける。スプリングがアサシンクロスをやんわりと受け止めた。

ハイプリーストはアサシンクロスから目を離し、上へと視線を戻した。ベッド脇に灯るランプに天井の細かな装飾がうっすらと陰影を写す。 ハイプリーストは黙っており、アサシンクロスは上体をわずかに捻りその横顔をただ眺めていた。

「アレが転生した」

知っていたかと問われ、アサシンクロスは目を伏せ小さくかぶりをふった。



あれからアサシンクロスはローグを見ていなかった。

見たら欲望が募る。欲しくなる。何が何でも手に入れたくなる。だが決して手に入らない。その事実が怖かったのだ。

思い起こしても何が己をそう駆り立てたのか分からない。
ただ目の前に立つ戸惑った表情のローグから、あのチェイサーと同じ煙草の匂いがする。
それがどうしようもなくアサシンクロスを苛立たせた。

ローグを路地裏に引きずり込みジャケットをはぎ取る。
敵わないと分かりつつも使い慣れない左手で抵抗するその姿にアサシンクロスは我を忘れ暴力をふるった。
腹に鈍い拳を受け苦しそうに崩れゆく身体を壁に押しつける。

アサシンクロスの毒に犯された醜く皮膚が引きつる傷口に爪をたてる。お前は私のものだとローグに知らしめるように、その所有印にきつく歯を食い込ませた。

激昂のまま己の欲望をローグの中に放った後、アサシンクロスは我に返った。

陵辱の痕が生々しく刻まれたローグの身体を、アサシンクロスは血の気の引いた顔で呆然と見下ろす。
無理矢理犯され血を流すローグにすら大丈夫かと気遣われるほど、アサシンクロスは狼狽していた。

己の内に潜む醜い欲望に。
そして痛みに顔を顰めながらも平然とした表情で衣服を身につけるローグに。

この行為に慣れすぎたローグの四肢は、どれだけ手荒に扱われてもやわらかく流れるように痛みを避け己が快感と感ずる場所へと欲を誘う。
アサシンクロスの激情すらもするりとかわし、ただの性行為へと変えてしまう。相手など誰でも同じ、何もないただの行為へと。

細い身体を抱いてもアサシンクロスは何も掴むことができなかった。ローグを手に入れることなどできないことを、まざまざと思い知らされたのだ。



「鬼伝説、というものがある。アマツに伝わる話だ」

ハイプリーストの声にアサシンクロスはふと我に返った。
いつのまにか伏せられていた目を上げると、ハイプリーストの視線とぶつかった。

「モモタロという名の若者が鬼を退治する物語だよ」

何でも桃から産まれたからモモタロと言うらしいとハイプリーストが付け加えると、アサシンクロスは不可解そうな顔で眉を顰める。
どうやら人面桃樹に寄生した小猿が投げてくる固い桃から人間がポンっと出てくる想像でもしてるのだろうその表情から、ハイプリーストは微苦笑して視線を上に向けた。

「その鬼というのが、ローグだ」

アサシンクロスは目を見開いた。

「アレはな幼少時人買いに売られ、忍として育てられた」
「……忍者、ですか?」
「そうだとも違うとも言える。冒険者ではなく暗殺者に属するアサシンに近いな。人に仕え道具のように生きる者たちだ」

知らず知らずシーツを握りしめる。アサシンクロスも暗殺者として育てられた。その過酷さは分かっている。

「非道で冷酷な行為が為されていたと聞いている。子供同士で殺し合いをさせるほどにな」
「ッ! ……それは冒険者保障に反するのではありませんか」
「忍者に冒険者認定がおりたのは、つい最近のことだ」

アサシンクロスは顔を強張らせる。ハイプリーストは静かに目を閉じた。

「冒険者は命が最低限保障される。生きる権利がある。各ギルドは所属する者を守る責務を負っている。だが、アレがいた頃の忍は冒険者ではなかった。命を守るものはなにもなかったんだよ。寝食を共にした子供たちが突然殺し合わねばならない。死ねと命じられればすぐさまその場で命を絶たねばならない。そんなことが当たり前のように行われていたよ」

「……なんて、ことを……」

アサシンクロスは喉の奥で呻いた。殺さなければ殺される。生きるためには人を殺さなければならない。
そうやってローグは生きてきたというのか。

「アレが仕えた主も非道な男だったと聞く。暗殺から護衛、閨の慰みと道具のように使われた。だが男は裏の事情に関わりすぎたアレの存在が疎ましくなりはじめた。忍は使い捨てだからな、金を出せばいくらでも代わりがいる」

ハイプリーストは言葉を切り、憤りや哀しみに揺れるアサシンクロスの心情が落ち着くのを待った。



「ある日アレに命令がくだった。……鬼退治だ」

ハイプリーストは目を開けると、アサシンクロスの腰に腕を回して引き寄せる。
アサシンクロスは逆らわず上体だけを寝台の上に倒した。ハイプリーストの顔の横に肘を突き身体を支える。

「よくある話だが、アマツでは古来より鬼が悪さしないように生け贄を差し出していた。アレは生け贄に扮して鬼を殺すよう命じられ、武器も持たされず拘束され送り込まれた。鬼が現れれば追従の者が拘束を解いて武器を渡すという呆れるほど適当な計画だったらしいが……、わかるだろうそれは実行されることはなかった」

すぐ目の前でわずかに揺れるアサシンクロスの瞳をハイプリーストは見上げる。
首根に手を回し頭を下げさせ冷たい唇を舌でなぞった。

「ワープポタールの先は神社に通じていた。アマツの奥にある古びた建物だ」

そこで何が待っていたか分かるかと息をするように囁く。

「複数の男共だ。生け贄とは名ばかりの実際はねじまがった欲望の捌け口だった。まさに人間の皮を被った鬼共だな」

私も似たようなものだがな、とハイプリーストは嘲るような声音で続けた。

「アレは抗い逃げた。神社にはひとつだけ外に続く扉がある。扉の向こうには小さな池があった」

呼吸すら忘れたように聞き入るアサシンクロスの首にハイプリーストは指を這わす。情欲を引き出す動きではなく、優しくなだめるような仕草。

「その池には生け贄が逃げないように大量のヒドラがいる。人の手によって植え付けられたものだ。アレに逃げ場などなかった。あとずさった足に触手が絡みついて、その後は言わずとも想像がつくだろう。ヒドラは人間の体液が好物だ。男共の精液に汚されたアレがどんな地獄を味わったのか……」

アサシンクロスがぎりりと噛んだ唇から血が流れ、ハイプリーストの頬に落ちた。

「アレは発狂したんだ。その場にいた男共を殺し姿を消した。そして現れたのが人の命を奪う鬼だ。人の血を糧とする鬼だ」
「……吸血、鬼」

「鬼を討伐しようと数多の戦士が出向いていったが帰ってくる者は少なかった。命からがら逃げてきた者が言うには、鬼は少年の姿をし、多くの命を奪った右手は赤く染まり、身体は傷だらけだったそうだ」

「そして、モモタロが鬼を退治する鬼伝説が生まれたんだが、事実はモモタロというふざけた偽名を名乗ったプリーストが鬼を封じた。……これは50年前ほどのことだ」

「50年前……」
「しかしなんらかの事故で封印が解かれアレは逃げ出した。我々が見つけたときは、鬼の記憶を失い暢気に冒険者なぞやっていたよ。見つけ次第即刻封じるはずだったんだが、ローグとなり自由を謳歌する姿にこのまま監視付で自由にさせてやろうと同情する意見が多く出た。あまりに不憫な境遇だったからな。……まあ流石にアレがのこのこと私の元に来たときは驚いたがな」

「しかしローグはアマツの話を……」
「アレにアマツを懐かしむような記憶などないよ。……孤独な鬼が作り出した妄想だろうな」

アサシンクロスの乏しい心に混沌とした感情が渦巻くのを奥歯で噛み締め、目を伏せた。



転生したことにより鬼の記憶を取り戻してしまった。アレはじきに人の血を求め狂い始めるだろう。

「お前に改めて命じる。もはやアレを野放しにはできない。ここに連れ戻せ」
「……承知しました」




***



いくつもの触手に身体を絡み取られ、下卑た嗤いがこだまする。
誰も助けてくれないと分かっていても手を伸ばさずにはいられなかった。小さな手は空を切る。それでも必死に何度も何度も。




こいつをしばらく預かってくれないかと、転生を果たしシーフとなったローグが相変わらず無表情のウィザードを連れてチェイサーの元を訪ねた。

「アンタに迷惑かけるんは分かってるんやけれど……」

あれからシーフは一度もチェイサーを見ようとしない。

ヴァルキリー神殿で先日ローグは転生した。
しかしノービスへと逆戻った幼い身体は無数の歪な傷跡と赤い腕を持っていた。それは転生前のローグにはなかったものだ。
狂ったように泣き叫ぶノービスを、チェイサーはどうすることも出来ずただ抱きしめた。
どこからか感じるいくつかの不穏な気色をたたえた視線から隠すように、気を失った小さな身体を庇い地上へと戻った。



「まあ、とりあえず入れよ」

チェイサーは扉を開け中へと促す。
シーフはためらいややあってから部屋に入った。いつもなら我が物顔でソファにふんぞり返り茶出せ菓子出せと鬱陶しいほどに喧しいのだが、今は座ろうともせず俯き加減に立ち竦んだままだ。

チェイサーは溜息を吐き、コーヒーを入れたカップを二つテーブルに置いた。飲みかけだった己のカップを手に、ウィザードが静かに座る一人用のソファの肘掛けにチェイサーは浅く腰を掛けた。
ウィザードは無表情のまま片時もシーフから目を離さない。
小柄な少年の姿へと戻ったシーフは、二人分の視線を受け気まずそうに身じろぐ。

「で、理由を説明してもらおうか」
「俺シーフになったやろ、だから当分ろくな狩り場に行かれへん。……そやから転職するまで預かって欲しいんや」

しどろもどろに嘘を並べるシーフに、チェイサーは苛立たしげに舌打ちをする。

「お前いい加減にしろよな」

手に持っていたカップをガンッと無造作にテーブルに置き、シーフへと詰め寄った。後ずさろうとするその身体を掴む。

「おい、こっち見ろよ! 何を隠してる!」

ますます縮こまり頑なに俯くシーフの顔を掴み上を向けさせる。
チェイサーが喋るたびに滑らかに動く首筋が嫌がおうにも視界に入る。シーフは苦しそうに視線をそらせた。



甘い香りがする。甘い甘い血の香り。

ドクンドクンと心臓が脈打つ。
その身体に流れる甘く熱い血が欲しい。思う存分喉を潤したい。シーフの目に狂気の色がちらつく。

己の喉元へと伸ばされるシーフの小さな手をチェイサーは何の抵抗もせず見つめた。
赤く染まった右手が何の躊躇いもなく的確に頸動脈を押さえ締め上げていく。チェイサーは呼吸が圧迫され歪む視界の隅で、シーフがゆっくりと首筋に顔を寄せてくるのを見ていた。

後方でかすかに聞こえた布の擦れる音と同時にチェイサーとシーフの間に小さな爆発が起こり、各々後方へ吹き飛ばされる。
立ち上がったウィザードが魔法を放ったのだ。
チェイサーは赤くなった喉を押さえ激しく咳き込み、シーフは後頭部を壁に打ち付け我に返った。

「……堪忍、堪忍な」

チェイサーの首の感触が残る手を呆然と見下ろし、シーフは何度も謝る。

「俺な、バケモノやねん」

ふるえる身体で立ち上がり、シーフは視線を伏せたまま寂しく笑った。自分に向けられる二人の視線が、嫌悪に染まるのを見るのは怖かった。

「でも俺、アンタらを傷つけたくないんや。ほんま大事やから」

シーフはウィザードの足下に視線を向ける。

「止めてくれておおきに」

チェイサーが動く気配にシーフはびくりと身体を強張らせ、きびすを返すと逃げ出した。咄嗟にその身体を掴もうと伸ばした手は、しかし届かず、チェイサーはクソッと床にきつく拳を叩きつける。




「AGAPE」 2009.4.12
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