迷惑顔な宿屋の主人をカネで黙らせる。

アルベルタは高級住宅が並ぶ白亜の港町だが、どこだって光の当たらない場所はあるわけで。
ローグとマジシャンは、そんな場所の潮と生臭い匂いが混じる汚い一室にいた。軋む小さなテーブルにはうずたかく積まれた食料。

「ええか、お人形さん。メシはここな。んで便所はあっち」

ローグはテーブルと奥のトイレを指さしてから溜息を吐く。

聞いてる素振りもなく明後日の方向を見遣るマジシャンの顔を片手で掴み、こっちがメシとテーブルに顔を向けさせ、あっちが便所と奥の薄汚いドアに顔を向けさせ、ハイプリーストの部屋にあったベッドとは比べものにならないほど固く湿ったシーツの上に座らせた。
そしてくローグは右肩を押さえ、もう片方のベッドに崩れ落ちる。

「ほんま、きっつ……」

アサシンクロスの刃には毒が塗られていることは知識で知っていた。
しかしその傷みが知られていないのは、アサシンクロスと対峙して生き延びる命があまりに少ないからだ。

真綿のようにやわらかく、されど冷酷に身体を蝕んでいく。それはまるであの孤高のアサシンクロスのように。



傷の酷い痛みと焼けつくような毒の熱がローグを苦しめる。
朦朧とする意識を必死で繋ぎ止めようと、傷口を押さえる左手がきつく爪を食い込ませる。

シーフ時代に習った解毒ではアサシンクロスが扱う毒をどうすることもできず、全身に侵蝕しようとする毒に全細胞が抵抗するのを、ローグはただ歯を食いしばって耐えるほかに術はなかった。

温かな情も醜い欲も知らないアサシンクロスは、赤子のように無垢で美しい。
それ故に、食い込んだ牙は鋭く容赦がなかった。




***



ローグの足取りを追うのはあまりに容易かった。あっけないほどに。石畳に残される血痕。
目撃情報は聞かずとも勝手に耳に入ってくるほど。

「血まみれのローグがどこぞの美少年を誘拐したらしいぞ」
「港町の露天商がローグに脅されたらしい。なんでも山ほど食料を買っていったとか」
「ローグが警邏を襲ったそうよ。いやだわ物騒ね」





アサシンクロスは壁に身を寄せ機会を窺う。
扉の向こうに、ローグとマジシャンの気配。
いつでも部屋に踏み入れることはできる。容易にハイプリーストの命令を遂行できる。だが、アサシンクロスは迷っていた。

連れ戻せばローグはきっと殺されるだろう。
しかしこのまま見逃せばローグは毒によって確実に死ぬ。
傷の手当てをすれば、ローグは……。



部屋の中で人が動く気配を感じアサシンクロスはふと我に返った。
気付かれたかと息を詰める。しかしその足取りは扉の方ではなく部屋の奥へと。

「ちょっ……待ちっ! ストップ!ストップや! 痛っ……」

扉の向こうからかすかに聞こえたのは、布の擦れる音。
そして慌てるローグの気の抜けるようなゆるい声。

「やばいって……ほんま! ……っこら舐めンなって……!」

なにやらローグは必死に声を荒げているが、ゆるい口調のせいだろうかその危機感がこちらにはまったく伝わってこない。
アサシンクロスの口元は知らず知らず微苦笑を形作っていた。
それはアサシンクロス本人も気付かぬほどのかすかな変化。

錆びた錠前など何の足止めにもならず、ほんの一瞬扉が揺れた程度のわずかな間にアサシンクロスは部屋に侵入し、少しの重みにも大げさに軋んでみせる床板を足音一つたてず奥へと向かう。

マジシャンにのし掛かられもがくローグのかたわらに移動すると、息も絶え絶えにマジシャンを押し退けようとしていたローグの動きが止まった。
ローグは目を見開きアサシンクロスを見上げる。その双眸に揺れる戸惑いと狼狽。

アサシンクロスはマジシャンの細い腕を取りローグの上から降ろすと、隣のベッドに座らせた。
赤く塗れた薄い唇から細い顎のラインにローグの血が伝う。
傷口に触れた唇と舌はさほど毒の影響はなく、念のため緑ポーションを飲ませてから口元を手で拭ってやった。

マジシャンはローグの傷口を舐めていた。まるで動物が怪我を負ったときその傷を舐めるように。

ペットとして育てられ意志を持たないはずのマジシャンがローグの傷を癒やそうとしたのかと、アサシンクロスは小さな驚きを持って美しい少年を見下ろす。しかし無表情にされるがままに従う姿は、いつもの愛玩人形のそれだった。

「なんや、もう見つかったんか」

アサシンクロスがふり返ると、波打つシーツに沈むローグがじっとこちらを見ていた。悪戯っぽく笑う口の端が歪み痛々しい。

「……」
「お人形さんを連れ戻しにきたんか」
「……ああ、お前も」
「ふうん、エロ性職者は俺がおらんと寂しくて寝れないわけか」
「…………そうかもな」

アサシンクロスはベッドの傍らに膝をつくと、ローグのジャケットに手を掛ける。
抵抗されるかとかすかに身構えたが、予想に反してローグは何も言わずただじっとアサシンクロスの手元を目で追っていた。

血に汚れ刃物で切られボロボロに破けているジャケットを脱がせ、露わになった右肩にアサシンクロスは眉を顰める。
傷口は膿み始めていた。右肩を中心に右肘や右胸にかけて毒に犯され青紫色へと変色しはじめている。
血管が浮き出てみみず腫れのようになり、蛇が這ったような痕が全身に広まっていた。

思ったよりも毒の回りがはやい。
もう手遅れかもしれないと、アサシンクロスの経験が警鐘をならす。
一刻も早く少しでも多く体内に残っている毒を抜こうと、アサシンクロスは肩口に顔を近づけた。



「触んな」

アサシンクロスは傷口からローグの顔へと視線を移した。
きつく睨む双眸に強い拒絶。アサシンクロスは逸らすことなく真っ向から受け止める。

「この毒は、私以外解毒は出来ない」
「それがどうした。放っておけば勝手に死ぬんや」

どうせ殺すのに何故助けるんやとローグは可笑しそうに問う。

「それとも、俺とこのまま逃げる気があるんか?」
「……」
「俺がアンタを連れ出してやろうか? ゴ主人サマから逃げたかったんだろ?」
「…………それは、できない」
「ふん」

嘲りに唇を歪めるローグを見ていられず、アサシンクロスは傷口に視線を戻した。
泣くのを堪える幼子のような表情をしていることに、きっとローグ自身も気付いていないだろう。

傷口に唇をあて毒を吸い出しては吐き出す。
掴みかかってくる左手を、抗う身体を、難なくベッドに縫いつけ、やめろ離せ殺すぞと耳元で怒鳴られても聞く耳持たず。

左手を掴んでいる手をそのままに肘で鳩尾を抑え抵抗を封じ、もう片方の手で解毒薬の液体が入った小瓶を取り出すと封を噛み切った。

「かなり染みるぞ」

低く囁くように忠告すると、ローグの抵抗が思わずピクリと止まる。
その反応があまりに素直でアサシンクロスは思わず口元を弛めた。ローグはバツの悪そうに、ぷいっと顔を背けた。

ドロリとした濃緑の液体を傷口に垂らすと、ローグの身体が跳ね抑えきれなかった悲鳴があがった。
痛みに強張る身体を抑えながら、少しずつ解毒薬をローグの体内へと入れていく。
傷口に残る毒は吸い出せるが、全身に広まった毒は解毒薬でしか癒せない。間に合ってくれとアサシンクロスは祈った。

「痛っ、……なぁ、アンタのやってることは間違ってるんや」

息も絶え絶えにローグは呟く。
痛みに揺れ潤んだ目はただ静かにアサシンクロスを見上げていた。

「……そうだな」
「アンタに与えられた選択肢は二つなんや。俺と逃げるか、お人形さんを連れてゴ主人サマの元に戻るか」

俺と逃げる気がないんなら解毒の選択肢はないんや、とローグは続ける。アサシンクロスは目を逸らし傷口に唇をあて毒を吸い出すと床板に吐き出した。ローグが痛みに小さく呻く。

「……主はお前も生かしたまま連れてこい、と」
「ふん、エロ聖職者のトコまでたかが30分程度や。まだ十分生きとる」

んな早漏とちゃうわとがなる喧しい声に、アサシンクロスがわざときつく毒を吸い出してやると、ローグは痛みに顔を顰め口を閉じた。



「なんか……ふわふわしとる」

熱が上がってきたのかローグの意識が薄れはじめていた。
アサシンクロスは掴んでいたローグの左手を放し、そのままの手で額に張り付いていた汗に濡れた前髪をそっとかきあげてやる。
額に触れたアサシンクロスの手に、ローグは目を細めニッと笑った。

「……アンタの手、ひんやりしててきもちええな」

戸惑いながらもアサシンクロスは汗ばんだ額に手を軽く乗せた。
高い体温がてのひらを通して伝わってくる。

毒性が高ければ高いほど、解毒も劇薬となる。
毒が心臓を止める前に中和できたとしても、次は解毒薬がローグを苦しめる。ローグの体力が持つかどうか、アサシンクロスには分からなかった。

「なぁ。俺とゴ主人サマ、崖で落ちそうになっててな。……どっちかかたっぽしか助けれないんや。アンタはどっちを助ける?」
「…………両方」

そりゃルール違反やとローグは子供のように無邪気に笑った。

「……お前は試すようなことばかり言う」
「試す? ソレを言うなら鬼性職者やん」

アンタに俺を追いかけさせる名目で試してるんや。
アンタがゴ主人サマのトコに戻るか、それとも裏切るんか、試してるんとちゃうんか。

「……」

お綺麗なアンタはわからんと思うけどな、とローグは怠そうに身じろぎ息を吐いた。

「助けるってのはな、相応の覚悟と責任が必要や。中途半端なお情けや同情はな、……ただ残酷なだけや」

殺す方が楽なもんやなとぽつりと呟き、ローグは意識を手放した。
閉ざされた目尻から流れた一筋の涙は、シーツに吸い込まれ消えた。




***



「見つかったのか?」

書類から目を上げることなくハイプリーストは問うた。

「……いえ」

アサシンクロスはかすかに首をふる。

静けさに張りつめた部屋。
ハイプリーストがペンを走らせる音だけが響く。賑やかなローグがいなくなり、部屋は元の静寂に満たされる。
アサシンクロスは扉の前に立ったまま動かなかった。

コトリとペンを置く音と共にハイプリーストは顔を上げ、アサシンクロスを見た。重厚な革張りの椅子をひき立ち上がると、奥の寝室へと足を向ける。

「来い」

ハイプリーストに命じられアサシンクロスは黙って後に従った。

アサシンクロスの見え透いた嘘を、ハイプリーストは当然見抜いてるであろう。ハイプリーストにアサシンクロスが抱かれる時、それは罰であり躾であった。

これから与えられるであろう酷い仕打ちに、恐怖で体が強張り足が竦む、……はずだった。
そう、かつては。

しかし今のアサシンクロスに沸き上がるものは、快楽への期待、身体の渇き、奥底の疼き。己を撫でるハイプリーストの指を思い浮かべ、アサシンクロスは小さく喉を鳴らす。



ここに連れ戻せば、ローグは殺される。
見逃せば、ローグは毒によって死ぬ。
傷の手当てをすれば、生き存えば、ローグは……。

私の元から、逃げる。






血と毒の香が残る口内を舌で蹂躙しながら、ハイプリーストは目を細めアサシンクロスの顔を見ていた。

形の良い眉を顰め、かすかにふるえる睫毛が白い肌に陰影を落とす。その快楽と苦痛に耐える様は、神に命を捧げた殉教者のように敬虔で美しい。

アサシンクロスが淡い月光を身に纏い部屋に現れた時の姿を、ハイプリーストは今でも鮮やかに覚えていた。
神の存在を信じたことは一度としてなかったが、その姿はまさにそれに近しい神聖さを持っていた。

薄暗い部屋では姿形は見えず、ただその存在そのものに目を奪われた。扉が不作法に開き、警護の者が侵入者を捕らえる。
廊下から洩れる灯りに映し出されたのは、両側から拘束され血を流す痩身のアサシンクロス。
それでもハイプリーストは、その背に純白の翼を探すことを禁じえなかった。

人は、美しいものを汚したくなる。

誰にも触れさせたことがないであろう奥底を汚す快感。
日に当たらない白い滑らかな肌に情欲の跡をつける興奮。
苦痛と恐怖に身体を強張らせる様も、悲痛な喘ぎ声も涙もただひたすらに甘い。

神聖なものを汚す背徳的な悦び。
それでも、アサシンクロスは美しく気高い存在であり続けた。



しかし、今。
ハイプリーストの腕の中で快楽にふるえるアサシンクロスが時折見せる姿はまるで娼婦のように。
快楽に溺れ自ら腰を振る四肢はマジシャンよりも淫らで、誘うように抗う様はローグよりも艶があった。情欲に濡れる瞳がハイプリーストを捉えて離さない。

目を逸らすことを許されぬまま、ハイプリーストは気付かされる。
アサシンクロスは墜ちたのだ、と。



「今回は見逃す。だが次はないと思え」

私を裏切るなと耳元に囁き耳朶を噛む。きつく激しく奥を突かれ、アサシンクロスはガクガクと身体をふるわせる。

「……決して」

ハイプリーストは唇の端を歪め己の欲をぎりぎりまで引き抜き奥へと一気に突き立てると、アサシンクロスの白い細い喉が艶めかしく仰け反る。甘い吐息が零れ落ちた。





***



宿屋の主人は、目の前に積まれた多すぎるカネとアサシンクロスに値踏みするような眼差しを向けた。

「そうは言われやしても旦那、あっしも商売でしてね」

両手をすりあわせへつらう主人の手を掴み、アサシンクロスはその小指を折った。
一瞬何が起こったのか分からず主人は笑みを浮かべたまま、アサシンクロスの顔からその手元へ視線を降ろしていく。アサシンクロスの手に掴まれた己の手。
左の小指が途中から曲がるはずのない方向に折れていた。

「三日だけで良い。決して口外するな」

薬指に手を掛け無造作に折る。主人は脂汗を垂らしがくがくと頭を振った。

先程来た二人連れの宿泊客が、町で噂になっている当人だとすぐに察しがついた。警邏に高値で売りつけようとしていた矢先、目の前のアサシンクロスが現れたのだ。
ローグが支払った高すぎる宿泊料そしてアサシンクロスが積む多すぎる口止め料が事のやばさを告げてくる。

このまま黙って懐をあたためれば良かったものを、カネに目がくらんだ主人は過ちを犯した。その代償が二本の指。
そしてその指が三本に増やされようとしていた。

「わ、わかった!わかりやした、決して誰にも言いやせん」

アサシンクロスは冷めた眼差しを主人に向け、手を放した。



あれから宿屋は、宿泊客一組を残し臨時休業となっていた。
指の治療費を差し引いても余りあるカネで、宿屋の主人はこの三日間酒場に入り浸っている。
寝ぼけて扉に指を挟み骨を折ったらしい主人を囃し立て、賑やかな杯が交わされていた。

人気のない宿屋に、元より客など滅多にない閑古鳥が鳴くボロ宿屋だったが、アサシンクロスは足を踏み入れた。二階へと続く階段を上がり、一つの部屋の前に立つ。

ローグが生きている確立は五分五分だった。
そしてローグが部屋にいる確立も五分五分だった。
つまり死んでいるか、部屋にいないかのどちらかだった。

扉の向こうに人の気配は感じられない。



三日与えた。
それはローグのためでもあり、マジシャンの身を案じたためでもあり、そして己のためでもある。

ローグが死んだとしてもマジシャンは三日生きていられると判断した。ローグが生きながらえれば三日あれば動き出せると予想した。
アサシンクロスにとって三日はローグという存在を渇望するのに十分な時間となった。



アサシンクロスは静かに扉を開ける。
テーブルの回りには食べ散らかされた跡が残され、熟した匂いが立ちこめている。

ベッドは二つとももぬけの殻であった。

アサシンクロスは部屋に足を踏み入れベッドの傍らに立ち、ローグの血痕に染まるシーツに指を這わす。見下ろす双眸に、愛おしさと同じだけの別の何かが入り交じり消えた。





「because of you」 2009.4.03
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