可哀想に、マリオネット。
糸に操られ滑稽に踊るよ。
マリオネットを憐れんだ老人が、糸を切ったよ。
おまえはこれで自由だ、と満足げに言ったよ。

可哀想に、マリオネット。
糸が切れて寂しい寂しいと泣くよ。






 本日もぽかぽか陽気のプロンテラ。刻は昼下がり。規則的に吹く風が木の葉を揺らし、葉陰が幾何学模様を石畳に描く。ケイは夕月の隣に座り、ぼんやりと夕月の手元と、首筋を眺めていた。
 南大通りに面した木陰で、夕月は露店の準備をしている。カートから濃紺の敷物を取り出し、敷いたその上に商品をぽいぽいと無造作に並べていく。そして最後にケイが初めて出したカードをそっと置いた。看板に値段を書き込んで立てかける。一連の作業を慣れた様子でてきぱきと進めていくその腕が動くたびに、胸元が開いたシャツの襟の合間から、赤い痕が見え隠れする。
 白い肌に映える、赤い所有印。消えることのないその痕は、今朝また赤みを濃くしていた。気怠げな影を落とす夕月の横顔を見遣りながら、昨晩また聖に付き合わされたのだろうとケイは小さく溜息を吐いた。

 聖と夕月の関係が分からない。
 恋人ではないのに、聖は夕月を抱き、夕月は聖に抱かれる。そして俺は夕月に全力で拒絶され、しかもやりたければ聖とやれとまで言われた。正直かなりショックだった。無論この程度で諦める俺ではないが、へこたれは絶対しないが、でもやっぱり結構参ってる。
 それなのに……とケイは胸中で呟いた。
 あの夜、俺が夕月の首筋につけたキスマークの上に、聖は上書きするかのように、俺が残した痕を消さんばかりに、きつく噛んだ。あれから赤い痕は消えていない。俺が二人の関係に気付く前もその後も、情事の痕が残されることはなかったのに、首筋の痕だけは色が薄くなる度にまた赤く刻まれるのだ。ただの悪戯心なのか俺への当てつけなのか、聖の真意が分からない。
 しかし、聖に対して憤りや憎悪といった負の感情は湧いてこない。まぁ、むかつくのはむかつくが。夕月に惚れて夕月といちゃいちゃしたくて、でもそれは聖から夕月を奪いたいわけじゃない。今の夕月が好きで、聖のいる夕月が好きで、そして聖も同じぐらい大切だからだ。
 いつか、聖を傷つけ夕月を壊してでも、己のモノにしたいと思うときがくるかもしれない。恋が愛にかわり醜い執着になるかもしれない。綺麗事だけでは、決して心は満たされないのだから。

 でも今はまだこのままで良い。ケイはそっと夕月の頭を己の肩に引き寄せ、凭れさせた。
 ありがとうと夕月が微笑み、目を閉じる。
 肩に感じるその温もりに、ケイは気持ちよさそうに目を細めた。




 “この哀れな声一つ、三つあわせた舌に逆らえましょうか?”
2010.01.27




 ラグナロクオンラインという日本最大級オンラインゲームの一プレイヤーだったケイが、ゲームの世界のキャラクターになってから数週間が経つ。この世界の仕組みにも慣れ始めてきた。
 今更な余談だが、メンテナンス時間は俺にとっては一瞬のまばたきで過ぎ去る。目を開いた時に生ずるズレや聞こえてくる会話で、ああ今日は火曜日なのかとか、今日のメンテは長引いたのかとか気付かされるのだ。メンテ中は多分機能停止でもしているのだろう。面白いような怖いような不思議な感覚。


 あちらこちらで露店を開く商人系のキャラクター。その間を歩く様々な職業のキャラクター。いずれもプレイヤーに操作されたキャラクターばかりだ。性別、職業、髪型、頭装備、違いは確かにある。でもどれも同じ顔で無表情で、プレイヤーに操作されて動くだけの器にしか見えなかった。
 しかし今は分かる。それぞれにキャラクターが違う。
 日々放置露店されてるのかマーチャントがぼんやりと虚空を眺め、上級狩り場で腕を磨いてるのか自尊心の高そうなオーラハイウィザードが、綻び破れる外衣の裾をなびかせながら通り過ぎる。いかにもお喋り好きを思わせるハンターは陽気で愛らしく、うつむき足早に歩くアサシンは人見知りするタイプか。
 キャラクターはプレイヤーの姿そのままを映し出していた。プレイヤーがとった行動をキャラクターは全て記録しているかもしれない。まさにプレイヤーの分身そのものだった。




「あれ、ゆうくんだ!」

 こんにちはー^^と、どこからか声が聞こえる。ケイにはラグナロクの世界で名を呼ばれる知り合いはいない。またゆうくんと云う名の知り合いもいない。ぼんやり聞き流していると、隣に座る夕月にブレスがふわりとふりかかった。見遣ると、青色の長い髪をした女ハイプリーストが立っている。
 また女キャラかよ……、ケイは頬をひきつらせる。プロンテラに来る度に誰かが夕月に声を掛ける。そのほとんどが女キャラだ。月君だのつっきんだのゆうくんだの、このすけこましがっ! そんなに俺より女が好きかっ!!
 疲労回復、もとい、機能を回復しているその身体を力一杯揺さぶりたい衝動に駆られる。そんな葛藤の最中、女ハイプリーストは再度ブレスをかけてきた。次はリカバリーのおまけ付きだ。

「あ、こいつ今AFK中で」

 思わず声が出た。声が言葉になり、声帯がふるえた。
 言葉は文字に変換され、このキャラクターを操作しているプレイヤーのディスプレイに表示されるのだろう。初めてのプレイヤーとの会話。心臓がばくばくと激しく鼓動する。俺の言葉は果たして届いたのだろうか。躊躇ってるのか回線が弱いのかキィタッチが遅いのか、いらえが返るまでの時間が長く感じられた。

「そうなんだ、ありがとう^^」

 緊張で詰めていた息を吐き出しがてら、いやと返答をした。立ち去るかと思いきや、ハイプリーストは立ち止まったままこちらを見ている。
 操作しているプレイヤーには、俺と夕月が二人並んで座っているとしか見えないが、しかし実際は俺の肩に夕月がもたれかかってるのだ。じっと見つめ続けるハイプリーストの視線に、嫌が応もなく心拍数が跳ね上がる。もしこのハイプリーストにも自我があるとしたら、きゃーホモよ!と思っていることだろう。きゃーなのかぎゃーなのか知らないが。

「ゆうくんの知り合いさん?」
「うん」
「INT型? 殴り?」
「殴り」
 一緒だー^^と女ハイプリーストは人なつっこそうに喋る。レベルは?とか、狩り場どこ?とか無難な問いかけに、強張っていたケイの口も少しずつ緩んでいく。

「あ、雪が降ってきた」
 今年は雪が多いなー;;と。北の方?と問うと、青森なのだー^^vとハイプリースト。雪が多そうだと相づちをうつケイに、ケイさんはどこらへん?と問いが返る。喋り慣れてるのか気配り上手なのか、恐らく両方だろうが会話のリードが上手い。知らず知らず会話に花が咲き、声に熱がこもる。院生で発表が間近なことや趣味のバイクの話、あとからあとから言葉が溢れてくる。こういった現実世界の話に酷く飢えていたことに気付かされた。

「あ、ごめん。母さんに呼ばれちゃった;;」
「了解」
「またね、ケイさん^^」

 ゆうくんによろしくーとハイプリーストが目の前から消える。ログアウトしたのだ。現実世界へと戻っていった。羨ましそうに名残惜しそうに見送る己に気付き、ケイは舌打ちし視線を足下に落とした。

「楽しそうだったね」
「うぉ、……びっくりした」

 いつのまにか目を覚ましていた夕月がこちらを見ていた。ケイのこと色々盗み聞きしちゃったと悪戯っぽい笑みを浮かべている。ハイプリーストとの会話は確かに楽しかった。でもそれはキャラクターである夕月や聖とは、決して楽しさを共有できない会話だ。ケイはやましい気持ちを押し隠すように、ブラックスミスの空色の髪をくしゃくしゃと手荒に掻き回した。


「ねぇ、ケイ。帰りたい?」
 再び目を閉じた夕月の静かな問い。

「いや、……」
 帰りたい帰りたくない以前に、そもそも帰れないじゃないか。仮に帰る術を見つけたとしても俺は帰らない。そう決めたのだ。もちろん帰りたくないと云えば嘘になるのかもしれない。でも今は夕月や聖と一緒にいたい。もっと二人のそばに近づきたい。
 伝えたいと思わなければ伝わらない言葉。見ようと思ったから見えてきた本当のこの世界の姿。
 なぁ、おまえらのこともっと知りたいよ。ケイは空を仰ぎ見る。


 窓辺に腰掛け読書に耽っていた聖が、窓の向こうに広がる青い空を仰ぎ見た。目を閉じる。
 一陣の爽やかな風が、ロードナイトの美しい横顔を撫でていった。





***



 ヒジリと名乗り呼ばれるもっともっと前、ラグナロクオンラインが生み出された頃からソレは存在していた。最初ソレはソレ自身をソレと認識していなかったが、テストが開始されテスターたちがプレイを始めた頃ソレはソードマンの姿に擬態した。二次職が実装されナイトとなり、転生職が実装されハイソードマンを経てロードナイトへとなった。
 ソレの前を沢山のキャラクターが通り過ぎていった。
 誰の例外もなく彼らの身体には、操り人形のように糸が繋がっていた。その糸は空の先へと繋がっている。ソレは目をこらして糸を上へ上へ辿ってみたが、その先を見ることはできなかった。糸はテスターやユーザーと呼ばれるプレイヤーに繋がっているらしい。キャラクターはプレイヤーに操られて動いてることを知った。そしてこの世界が人間の手によって造られたことも。

 ソレは己の上を仰ぎ見る。腕を、足を、肩を、頭を、指先を、探った。
 でも、糸は見つからなかった。

 キャラクターたちはプレイヤーに操られ、ひとりひとりがラグナロクオンラインという壮大な物語の登場人物だった。仲間と狩りを楽しむ者、Gvで活躍した者、相方を見つけた者、詐欺行為を繰り返した者、生涯ソロを通した者、ひっそりと引退した者、誰一人として欠けることのない歴史を紡ぐ者達。
 ただソレだけが一人、観客席に座りプレイヤーに操られ演じるマリオネットたちの舞台を見続ける。ふと後ろを振り返ってみたが、無数に連なる椅子はどれも空席だった。ソレは、一人だった。






 空色の髪をしたブラックスミスは、幸せだった。
 マスターが上機嫌なのが伝わってくる。髪に絡まり、時に風がからかうように揺らしていくツインリボンが少し恥ずかしくて、でも誇らしかった。なによりマスターが可愛い可愛いと褒めてくれるのが嬉しかった。
 プロンテラをのんびりと歩く。時々マスターの意識が僕から離れる。露店を開くブラックスミスや通り過ぎるホワイトスミスを見ているのだ。僕としてはやっぱり面白くない。でも意識がこちらに戻ってくるたびに、やっぱり夕月が一番可愛い!と繰り返してくれる。夕月も絶対WSになるよ!って熱く語るから、僕も頑張ろうって思ったんだ。
 こんな幸せがいつまでも続くのだと思っていた。永遠を信じたわけではない。マスターがログアウトすると夕月は眠る。そしてマスターが呼ぶと目を覚ますのだ。いつかマスターはゲームをやめるだろう。それでいいのだ。夕月は眠ったまま目覚めないだけなのだから。マスターが呼ぶまで僕は眠っていれば良いのだから。それはいつか必ず訪れる幸せな終焉。


 ある日、夕月はマスターではない誰かの声で目を覚ます。知らない声だった。
 アカウントがハッキングされたのだ。ろくなもん持ってないなと嘲る声が聞こえる。倉庫のアイテムが次々と運び出される。カートの中身も、夕月が身につけていた装備も剥がされていく。嫌だやめろと喚き、何度も何度もマスターを呼んだ。絶対に渡さないと睨みつけても、無表情の見知らぬマーチャントとの取引に応じアイテムを移しているのは他でもない夕月自身だった。
 なんとしても守りたかった。でも糸に操られた身体は云うことをきかない。
 恥ずかしいから嫌だと思った赤いリボンが、その手から離れていく。もっと男らしい装備にして欲しいと拗ねたうさぎのヘアバンドもマーチャントに渡された。マスターが一番気に入っていたツインリボンも外される。可愛いと褒めてくれたツインリボン。夕月は必死の思いで握りしめた。糸に逆らう手が悲鳴をあげ軋む。守りたかったどうしてもこれだけは守りたかった。しかしツインリボンは破れ、その手に残ったのは、ほんのわずかな切れ端。

 マスターと一緒に手に入れたアイテムが露店に並び、次々と売られていく。用済みになりぽつんと放置された夕月はじっと見続ける。その視線の先で、騎士がツインリボンを購入し、隣にいたプリーストに手渡した。嬉しそうに黄金色の長い髪にリボンを結わえる姿はとても愛らしかった。似合うよ可愛いよとマスターは言っていたが、どう見ても僕よりもあのプリーストの方が似合っていた。夕月はそれが少し可笑しくて、涙が頬を流れた。


 アカウントハッキングに気付いたマスターの悲鳴が聞こえる。憤りと哀しみが伝わってくる。僕は命令を待つ。僕はまだ動ける。一緒に狩りにいこうと言った。
 倉庫にはわずかばかりのアイテムが残っている。売ってもあまりお金にはならないけれど、マスターと僕で集めたものばかりだ。それに僕の銘が刻まれたナイフもある。属性も星の欠片も入ってないただのナイフだけれども、戦闘型の僕が初めて製造した唯一の僕の武器。マスターも喜んでくれた。思い出して。思い出して、僕は戦える。僕はまだ動ける。夕月は何度も繰り返す。
 しかし哀しみに染まるマスターに声は届かない。視界が暗転する。


 プツリと、糸の切れる音がした。






 どこからか泣き声が聞こえる。
 ロードナイトは耳を澄ます。風の音に容易く掻き消されてしまうほどのかすかな声。ロードナイトは読んでいた本を閉じ立ち上がった。声にたぐりよせられるように、足を一歩踏み出す。
 墓場は嫌いだった。プレイヤーの都合で日々捨てられ積まれていくキャラクターたち。その姿を見ていると、己の存在も彼らと同様、紛い物なのだとまざまざと思い知らされる。残骸が風化し風に吹き飛ばされ降り積もる砂の上を、ロードナイトは歩く。もしもこの死体の山が空の先に届く日がくるとしたら、そうしたら我々はそれをのぼって人間たちに報復するのだろうか。

「泣いていたのは、君か」

 砂に埋もれるように横たわるのはブラックスミスだった。もつれる空色の髪の間から空虚な瞳が空を見上げている。なめらかな白い四肢はプレイヤーにとても大事にされていたことを物語っていた。こんなに愛されたキャラクターが何故、とロードナイトは小首を傾げ、足下に転がるその身体を見下ろす。そしてゆっくりと手を伸ばし、ブラックスミスを抱えた。

 糸の切れた人形はもう二度と動かない。プレイヤーの操作がなければキャラクターは決して動かない。しかし寝台に横たえたブラックスミスは泣き続けている。涙も流さず声もたてずただただ静かに。
 どうして良いか分からずその身体に視線を彷徨わせていたロードナイトは、ふと左手がぎゅっと握り込まれていることに気付いた。頑なに爪を立てる指を一本一本丁寧にひろげていくと、てのひらには小さな布切れ。データーベースと照合して、それがツインリボンの端であることが判明した。この者にとって大切なものだったのだろうか。虚ろな横顔を眺める。探してみようとロードナイトは思った。
 プロンテラを南へ北へ東へ西へ日々歩いては露店を見て回った。商品に並ぶツインリボンを見つけると手に取り、端がちぎれてないか確認する。小さくかぶりを振って溜息を吐く。どれぐらいの時間が経ったのか分からない。ブラックスミスは人形のように何の反応もなく、声にならない泣き声だけがロードナイトの身体の奥をふるわせた。ひたすら探し続け、通り過ぎる者が着けているツインリボンに振り返る。
 そしてついに、端がわずかに破れたツインリボンを見つけた。




 空色の髪にリボンを結わえる。端のちぎれたツインリボン。慣れぬ手つきでやや苦戦しながら、ロードナイトが結わえた不格好な蝶々結び。
 虚ろな視線を天井に投げていたブラックスミスの、動かない静かな瞳が揺らいだ。静かな湖面に小さな波紋が縁へと広がり、涙の波が漣のように寄せる。堪えきれず閉じられたその眦から一筋の涙が頬を流れ落ちる。睫毛が小刻みにふるえていた。ぎくしゃくと錆びた腕がゆるりと持ち上がり、ロードナイトの腕にそっとふれた。そして指の関節をかくかくと折り曲げ、弱々しい力で縋るように掴んだ。

 それは一瞬。それは衝動。気付くとロードナイトはブラックスミスの白いシャツに手を掛け一気に引き裂いていた。露わになる陶磁のような皮膚を剥がすほどに、きつく指を這わす。この激情がどこからくるのか分からない。己の指が次の瞬間に何をするのかも分からない。ただこの身を満たすのは、人から求められることへの無垢な悦び、これは私の所有物だという手前勝手な確信。
 ロードナイトの指が這った痕が赤く腫れ熱が生まれる。皮膚を突き破る爪を濡らすのは、あたたかな赤い血。ブラックスミスのざらついた掠れる声が、痛いと泣いた。苦しいと呻いた。しかしその手はロードナイトをきつく掴んで離さない。下肢の衣服も取り去ると奥へと一気に突き立てた。身体の奥が燃えるように熱い。激痛と恐怖に背をしならせるその四肢を押さえつける。私から逃げることは許されない。息も絶え絶えにブラックスミスは酸素を求めて喘ぐ。それすら許さないとロードナイトは唇を塞ぎ、貪るように吸った。
 ブラックスミスはひたむきに求め続ける。涙に濡れる目がもっと、と請う。もっと支配して。この声も、この身体も、指一本髪の毛一本に至るまで、呼吸すらも。僕を糸で繋いで支配して、と。それは憐れなマリオネットの姿。可哀想、可哀想に。己の意のままに動かない身体に安堵し、他者に強要されることを渇望する。
 手荒に扱われもはや身体は動かない。それでも無理矢理抱き上げられロードナイトの膝の上に乗せられ、深くきつく奥まで受け入れさせられる。痛みに身体を引きつらせるブラックスミスはロードナイトに必死にすがりつき、甘い悦びの吐息をつくのだ。

プレイヤーを持たない二人。
見えない糸が、すがるようにもつれるように二つの身体を繋いだ。




***



 ケイは目を覚ました。いつのまにか眠っていたようだ。身体の左半分があたたかい。ぼんやりと視線をあげると、夕月のやわらかな視線とぶつかった。休む夕月を凭れさせていたはずが、不覚にもケイが夕月にもたれかかり眠ってしまっていたのだ。

「おはよう」

 挨拶をする夕月のいつもと変わらない優しげな微笑み。ばつがわるそうに視線を逸らし、悪ィと小さくぼやいた。格好悪い。夕月を守り頼られる存在になりたいのに、実際はまだまだ夕月に甘えている。
 ごそごそと懐から銀色に鈍く光る懐中時計を取り出す。聖がケイのために取ってきたものだ。見上げる空は鮮やかな青をたたえているが、刻は夕暮れにさしかかるところだった。

「そろそろ戻ろうか」

 手早く露店を畳む。寝てる間にいくつか売れたらしい、品数が減っていた。ケイがこの世界にきて初めて出したレアも売れたようだ。

「うん、帰ろう」

 聖が待つ家に。俺の居場所に。





「好きだよ、夕月」

 夕月だけに聞こえるように耳元に囁くと、困ったように小さく微笑んだ。
 思いは決して叶わないかもしれない。もしかしたらいつか叶うかもしれない。
 好きだよ、好きだよ。俺は何度でも繰り返すだろう。





 
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