夜中、ふとケイは目が覚めた。
 枕元に目を遣ると、淡く光る時計の短針が2時と3時の間を指し示していた。毛布を頭までかぶり右へ左へ寝返りをうってみたが、一度手放した眠りは易々と戻ってきてくれないらしい。仕方なく上体を起こし、あくび混じりの溜息を吐いた。
 濃紺の厚い布地のカーテンが遮る窓の向こうは、夜を知らないラグナロクオンラインの世界。夜が恋しいと思った。ここに来てから、ケイは当たり前すぎて見失いがちなものに気付かされる毎日だった。昼と夜、朝と夕、一日の移ろいがこんなにも愛おしく尊いものだったとは。

 ケイは、人間だった。
 ラグナロクオンラインという日本最大級オンラインゲームの一プレイヤーだった。一体何があったのか憶えていない。気付くと、己自身がゲームの世界の、キャラクターになっていた。あり得ないことだ。夢だと思った。没頭するあまりリアルとゲームの境界線をなくしてしまったのかとも考えた。しかし夢にしては生々しく、ラグナロクにそこまでのめり込んだ記憶もなかった。あくまでも暇つぶし程度だったはずだ。
 上体を捻り、目に留まった枕を何とはなしにポスッと叩いてみる。質感のあるやわらかな感触が拳をやんわりと受け止め押し返してくる。勢いよく倒れ込み枕に顔を押しつけた。落ち着き安心するかすかな匂い、夕月のものだ。嗅ぐように息を吸い込み吐き出す。良い匂いだと思った。

「ああああ、俺は変態かっ!」

 ガバッと起きあがると、枕の両側を掴みパフパフと寝台に叩きつけた。やがてふと我に返り手を止める。己の乱れた呼吸だけが小さく聞こえる暗い室内を一巡眺めてから、再び手元の枕に目を落とした。握りしめた箇所がくしゃくしゃになっていた。おずおずと胸に引き寄せる。顔を埋めた。

「……何やってるんだろ」
 くぐもった声でぽつりと。
 まだまだ情緒不安定なアコライトの少年は、その細い腕で枕をぎゅっと抱いた。





 “チェシャ猫が笑う。「お好きなように」と。”
2010.01.13




 深く深刻に考えすぎるきらいがあることは十分自覚している。ケイは悶々と考え続けることをやめ、その辺をふらついてみるかと部屋を出た。どれだけ考えたところで答えが見つかるわけがない。堂々巡りの自問自答は底なし沼にズブズブとはまりこんでいくのがオチだ。
 ふと聖の部屋の前を通りかかったとき、かすかに泣き声が聞こえた。足が止まる。気になり耳をそばだててみる。その声の正体が、泣いてるのではなく喘いでいるのだと気付いた途端、心臓がドクリと大きく脈動した。

「まじ……?」

 思わず壁にピタリと背を張りつけ、周囲をキョロキョロと見回す。それから、息を詰めそっと扉に耳をつけた。男同士でのセックスなどそうあるものではない。ましてや夕月と聖が……。
 嬌声というにはせつなく、すすり泣くように小さく喘ぐ夕月の声にゾワリと肌が粟立つ。言葉は聞き取れないが低くささやく聖の声は甘く色気があり艶やかだった。布のすれる音、寝台が軋む音、粘着質の水音。腰がくだけたように足がふるえ力が入らない。耳を犯すそれらの音が、アンアンと喘ぐだけの下手な演技のAVよりダイレクトに脳髄をしびれさせる。己の下腹部が熱くなるのを感じ、もつれる足であわててケイはトイレに駆け込む。夕月のせつない吐息が、聖の甘い囁きが、頭から離れなかった。




「…………おはよう」

 憔悴しきった表情でケイは挨拶をした。げっそりと頬がこけたように感じる。現実世界では24歳でも、この世界の身体は14、5歳。絶賛思春期真っ只中だ。お年頃の少年の身体には刺激が強すぎたのか、嫌と云うほど反応しすぎる下半身はもう散々だった。苦々しく溜息を吐く。
 居間には、椅子に腰掛け何やら紙に書きこんでいた夕月と、定位置の窓辺に腰掛け本を読む聖の姿。昨夜のことなど邪な夢だったのかと唸るほどに、まったくもっていつも通りの二人だった。恨みがましい視線をついつい送ってしまう。

「顔が赤いよ。熱ある?」

 ケイの心中などお構いなしに、青い空色の髪に似合う爽やかな顔をわずかに曇らせ、夕月が心配そうに覗き込む。キャラクターである夕月や聖と違い、ケイは人間だ。否、人間だった。その身に何が起こるのか予測不能な分、夕月は過剰なほどにケイを気に掛ける。

「いや、大丈夫」
「それなら良いのだけれども」
 朝食、食べれる?と夕月は腰をあげキッチンへと向かった。ケイが目覚める時が、朝食の時間となる。

 この家の住人で睡眠をとるのはケイだけだった。キャラクターである二人は睡眠を必要としない。時刻は、7時過ぎ。動かぬ太陽に照らされ時間の概念が薄いこの世界で、ケイのために取り付けられた時計が時を刻む。チクタクと振り子が揺れる木製の時計は、夕月がアルデバランの時計塔から黙って拝借してきたものだ。
 朝に目覚め、昼に動き、夜はカーテンを引いて休む。二人はケイが過ごしやすいように生活のリズムを合わせていた。


 夕月を手伝い、温められたハーブハチ蜜茶をカップにそそぐ。テーブルに散らかる紙を片づけようと手を伸ばし、紙面に目を落とす。夕月が書いていたのは買い物リストだった。紙を束ね端をトントンと整える。

「後でプロンテラに買い出しに行くけれど、ケイも来る?」
 背中に料理を運ぶ夕月の声がかかった。紙を手に持ったまま、テーブルに並んでいく料理を見遣る。今朝のメニューは、蒸しガニとグリーンサラダ、スペシャルトーストだ。

「……なぁ、他のプレイヤーに、……俺は見えてるのか?」

 読書に耽っている聖を呼び、夕月は椅子に腰を掛ける。本人は気付いていないだろうが紙の端を指でしきりに弄りながらしどろもどろに問うケイを、片肘をついた上に顎をのせ不思議そうに見上げた。

「うん、見えてる」
「俺の声も?」
「うん」
「でも、前に……」

 ぽつりと洩らした言葉の後を続けられず、ケイは黙り込む。
 町は、特にプロンテラは未だ怖くて行けなかった。夕月に会う前の、彷徨い歩いた孤独と恐怖が蘇り足を竦ませるのだ。

「この世界は、思いで成り立っているんだ」
「思い……?」

 よりによってゲームの世界の、プログラムで動くキャラクターである夕月の口から、思いという言葉を聞くとは想像もしていなかった。
 遅れて腰掛けた聖が、読みかけの本をテーブルに置いた。赤い表紙には『バフォメットも愛用☆初心者盆栽入門』とタイトルが墨字で書かれている。聖はトーストに手を伸ばしながら夕月の言葉を補足した。

「意識していないだろうが、今の君は伝えようとして喋っている。だから聞こえるんだ。逆に誰にも伝えようとしなければ、どれだけ叫んでも声は届かない」
「…………なるほど」

 とても簡単で単純で当たり前のこと、そんなことにすら俺は気付いていなかったというのか。思わずへたり込みそうになるほどの脱力感。行ってみる?と微笑む夕月に、ケイは頷いた。





***



 理屈ではなく本能はとっくにこの世界を受け入れていたのだ。それはきっと初めて夕月の手を掴んだあの瞬間に。頑なに意地を張って駄々をこねていたのは、常識、偏見、建前。そういったモノ。




 晴天のプロンテラ。本日も盛況なり。
 所狭しと広げられる露店の隙間を縫うように少し前を歩く夕月を追いかける。足を踏み入れた時分は緊張と不安に肩を強張らせぎこちない視線を周囲に巡らしていたものの、南の大通りを抜ける頃にはきょろきょろと露店を楽しめるほどにリラックスしていた。夕月が何度も振り返っては心配そうな視線をおくってくるのが、なんだか照れ臭くてくすぐったい。
 IAをかけ足早に通り過ぎるプリーストを横目に、ふとケイはこの世界に来てからスキルを一度も使ってないことに気付いた。プリになって支援してやると大口叩いたものの、今の俺にスキルは使えるのだろうか? 今更な疑問に首を傾げる。
 そっと心の中で速度増加、と呟いてみた。何も起こらない。しばし思い巡らせてもう一度、夕月の足を速くしたいと願ってみた。自然と胸の前で合わされた手からかすかな光が洩れる。どこから吹いてきたのか、身体の周りをサラリと駆け巡った風がケイから離れ、夕月の足下にじゃれつきふわっと霧散した。突如足が軽くなりつんのめりそうになった夕月は、いったん立ち止まり、振り返ってありがとうと微笑む。



「月君だ、ひさびさーw」

 ケイは思わず足を止めた。数歩先で立ち止まった夕月に近づいてくるのは、女ハイプリースト。やわらかなピンク色の髪を後ろでゆるく束ねている。ピンク色を基調としたハイプリーストの服によく似合っていた。

「めぐさんも久しぶり」
 バイトの面接どうだった?と続ける。
「受かったのは受かったんだけど、店長がすんごい厳しくてねー;;」
「あはは」

 でも良かったねおめでとうと微笑んだ。どれだけ嬉しそうに夕月が笑ったとしても、プレイヤーには見えない。ケイはハイプリーストと話すその横顔から視線を逸らした。
 ミスドだっけ?と夕月が問うと、ううんスタバだよーとハイプリーストは答える。間違いなく画面の向こうに、俺が居た、俺の知っている現実の世界がある。ハイプリーストを操作しているプレイヤーがそこに座り、モニター越しにこの世界を見下ろしているんだ。空を仰ぎ見る。なんて近くて遠い……。

「月君はどう? 仕事忙しいの?」
「うーん、まあまあかな」

 キャラクターが人間を演じる、不思議な感覚だった。
 伊勢丹とかユニクロとかM-1で優勝したコンビ名とか懐かしい単語が混じった会話がテンポ良く続いている。実際に行くことも見ることもできないくせに、まるで行ったことがあるかのように見たことがあるかのように、……まるで人間のように話す夕月が可笑しかった。可笑しいから笑おうとしたのに、笑顔は強張りそのまま凍りつく。背筋に悪寒が走った。
 談笑を続ける夕月がチラリとこちらを見遣る。その動かない目を、怖いと、ケイは思ってしまった。

「あ、臨集まったみたいだから行ってくるね」
 頑張ってねと夕月は手を振り、またねーwとハイプリーストがIAをかけて走り去る。


 おまえ、知ってるか?分かってるのか?気付いていないだろ?
 今おまえがチャットしたブラックスミスは、プログラムだぞ。操作するプレイヤーがいないんだぞ。モニターの向こうに人がいることを疑わず、当然だと思い込んで、当たり前すぎて失念しがちで、でも顔が見えないことがこんなにも怖いことなのだと、考えたことがあるか?

 なぁ、おまえの隣にいるそのキャラクターは、ちゃんと人間が操作してるのか?



 振っていた手をそのままに、指は気弱に軽く曲げられて、夕月がふりかえる。ケイと夕月を隔てる5歩の距離。いつもと変わらない微笑み。作られた微笑み。
 夕月は立ち尽くしたままケイが来るのを待っている。自分から近寄るのが怖くて不安で、一歩が踏み出せないでいるのだ。俺を見くびってるのか?俺がおまえを怖がって逃げるとでも思っているのか?俺はおまえと共に在ることを選んだ、そうだろう? ケイは迷わず5歩の距離を一気に詰め寄ると、夕月の手をひったくるように掴み、その手を引いて歩き出す。







 夕月は製造のため工房に下りていき、居間には本を読み耽る聖とケイが残された。会話もなく静かな室内に、ふりこを揺らす時計の音がやけに大きく響く。先程買ってきたリンゴを手の中で転がしながら、ケイは先程からチラリチラリとロードナイトを盗み見していた。やがて意を決し口を開く。

「なぁ、聖」
「ん」

 目線はそのままにいらえが返る。言いづらそうに言葉を選んでいると、本をパタリと閉じた聖がからかうような笑みを向けた。

「昨夜のことかい?」
「ッ! …………何だよ気付いていたのか」
 ふてくされるように軽く睨むと、聖はふふと笑みを濃くする。思わず視線が吸い寄せられ、少しばかり顔が赤らむ。こいつまじイケメンだなーとケイは思わず感心した。
「おまえらってコイビト同士なのか?」
「違うかな」
「そっか」
 詰めていた息を吐き出す。両の手で握り込んでいたリンゴに、わずかばかり爪が食い込んでいた。


「夕月を抱いてみたいのかい?」

 それとも私に抱かれたいのかな?と揶揄するような問いかけに、絶句したケイの手からリンゴが落ちる。ゴツンと床にぶつかった反動で小さく跳ね上がり、硬直する足下をころころと転がっていく。その音にビクリと身をふるわせ我に返ったケイは、咄嗟に扉の方を見遣った。夕月がいないことを確認したのだろう。

「い、いや、いやいやいや、そういうわけじゃ……」
「でも君には無理かな」
「なっ、何だよ!アコライトだからって馬鹿にしてるのか!」

 あたふたと何か意味があるのか手をパタパタと振り否定したと思ったら、次は気色ばんでくってかかる。人間ってのはころころと感情が変わる面白い生き物なのだなと聖は興味深そうに眺めた。私の言葉にいちいち反応してくる様もなかなかに小気味良い。

「そう言うわけではないが、君の力じゃ夕月を押さえ込めない」

 夕月は厭うからな、抵抗を封じ込む力も体格も君には備わっていないと告げてから、私に抱かれたいのなら構わないが、となぐさめらしき言葉を続けた。
 夕月が近づいてくる気配がする。話はこれで終わりだと云うように、聖は本を開いた。ケイはそれ以上の追求はしてこず、難しい顔でテーブルの表面を睨んでいる。



 汗と煤を洗い流した髪が濡れ、水滴が白いシャツにこぼれ落ち吸い込まれる。外すのが嫌なのか面倒なのかツインリボンもそのまま髪に吸いつき絡まっていた。ひとっ風呂浴びさっぱりした様子で居間に姿を現したブラックスミスは、窓際で本を読む聖の静かな横顔とテーブルに突っ伏し唸っているケイを交互に見遣り、床にぽつんと放置されているリンゴを拾う。テーブルにコトリと置き、どうかした?と小首を傾げ問うた。
 ケイは目線だけを上げ、タオルで髪を拭う夕月の腕を探るように見る。アコライトである己の腕よりは確かに幾分筋肉質ではありそうだが、しなやかな腕はやはり細い。聖が忠告する程の強靱な力があるようには到底思えなかった。

「夕月ッ! 腕相撲するぞ!」
「え、腕相撲って?」
「腕の相撲だ! そこに座れ!」

 ガバッと勢いよく起きあがり、夕月をキッと見据える。説明になっていない説明に目をぱちくりさせ、しかし言われたとおり示された椅子にブラックスミスは腰を下ろした。
 右手を要求され、強引に掴み取られ、勢いよく引っ張られ、肘をテーブルにつけさせられる。されるがままにきつく握られる右手を不思議そうに見下ろす夕月と、「ほう、これが腕相撲か」と感心した様子の聖。アコライトの少年だけが一人真剣そのものといった面持ちだった。

「レディゴーって合図したら、全力で手を前に倒すんだ。分かったな!」
「うん」


 ケイの合図に、腕相撲という名の男と男の真剣勝負が始まった。
 じわじわとしかし着実に押してくるのはやはり夕月だった。歯を食いしばり力をふりしぼるが、少しずつケイの腕が倒されていく。プルプルと腕をふるわせ、肘もわずかに浮かせながら、手首を逸らし意地でも手を着けまいと堪える。チラリと夕月の表情を盗み見ると、目を軽く伏せ口元を引き締めていた。力を抜いてる様子はない。
 これはイケルとケイは胸中で鼓舞する。最後の最後まで健闘した右手の甲がテーブルにつき勝負には負けたが、手応えは十分にあった。今は無理でも、プリーストに転職しさえすればこの程度なら抑えきれるはずだと確信した。

「強くなってきたね」
 邪な思惑など露知らず、夕月はやわらかく微笑む。
 強く握り握られた右てのひらが赤くなっていた。じんわりと残る夕月の体温を逃がすまいと握りしめる。STR先行殴りアコの実力を思い知ったかと聖に勝ち誇った視線を送ると、完璧なまでに美しく微笑む唇がさらりと切り返す。

「夕月の利き手は、左だぞ」
「えっ?!」

 間抜けな声。目を見開く。夕月に目線だけで確認すると、そうだね左手の方が得意かなと至極あっさりと頷いた。

「それじゃ、左手も……」

 先程までの勢いはどこへやら、しゅんとした様子で再度勝負の申し入れをする。気落ちしたケイを気遣うような寂しそうな申し訳なさそうなそんな気弱な夕月の視線に気付き、背筋をしゃんと伸ばした。己を叱咤し、やる気を奮い立たせる。ケイは右利きなのだから当然左は弱い。が、勝たねばならないのだ。勝たねばならぬ勝負が男にはあるのだ。俺は、勝つ!

「全力で来いっ!」

 気合いを入れ直したケイの左手がテーブルに凄まじい勢いで叩きつけられたのは、まさに開始の合図と同時だった。その余波でテーブルに置かれたリンゴが小さく跳ねた。あっという間だった。骨を砕かんばかりの鈍い打撃音が室内に響く。激痛は骨を痺れさせ臓腑をふるわせ脳髄に達した。
「…………ッ!!」
「あ、ごめん」
 思わず手を握りこみうずくまるケイに、椅子から立ち上がった夕月があわてて駆け寄る。一発KOだった。




***



「なあ、夕月とヤルにはSTRどれだけ必要なんだ?」

 他のステはどんな感じが良いんだろ? アコライトの少年は、夕月が居ない隙を狙っては聖の袖をしきりに引っ張る。よほど悔しかったのか、もはや恥も外聞もない形振り構わずである。
「ふむ。STRは120に調整するのが良いだろうな。しかし力だけでは夕月には勝てない。高いDEXも必要になる。性欲の薄い夕月は感度も悪い。喘がせたいなら、持久戦に持ち込めるVITが欲しいな。VITで焦らしAGIで一気に攻め立てる、その駆け引きを冷静に判断し選ぶINT。真性のマゾヒストだから言葉責めも有効かな」
 淡々と分析するロードナイトと、真剣な面持ちで聞き入るアコライト。迷走するケイの将来を案じてくれる常識人は、ここにはいなかった。



 目標が定まると人間は頑張るモノらしい。無理だと否定されると、俄然張り切るモノだということも分かった。実に興味深い。
 狩りに明け暮れるアコライトの少年は、擦り傷の数だけ強くなっていく。力をつけ、背が伸びる。姿かたちが少しずつ本来のそれに近づいてきたからか、迷い子のようにどこかおどおどとした不安さを常に漂わせていた雰囲気が、落ち着いたものへと変わりつつあった。印象的だった目の強さはさらに輝きを増す。生命力が溢れている。紛い物の私たちには持ち得ない輝き。人間はいかに素晴らしき美しき生き物かと、聖は感嘆する。

「最近、ケイがすごい張り切ってるね」

 あまりに無茶をするから、見てるこっちの方がハラハラするよ、と夕月が溜息を吐く。傷つき流れる血もそのままにモンスターに切り込んでいき鈍器を振るう。時に膝をつくケイを背に庇い、多すぎる量のモンスターを夕月が片づけることもしょっちゅうだった。
 もう一度溜息を吐くブラックスミスを横目に、ロードナイトは再び本へと目を落とした。疲れ果てたケイは夕食もそこそこに死んだように睡眠を貪っていることだろう。あとJOBレベルを1つか2つ上げればカンストになるはずだ。焦るのも無理はない。ましてや彼には「夕月とヤル」という高いのか低いのか判断しかねる目標があるのだから。
 自室はケイに貸したままなので、夕月は聖のベットにゴロリと寝転がる。天井を眺めたまま口を開く。

「前にね、プリーストに転職したら旅に出ようって約束したんだ」

 全マップを徒歩で巡ろう、と。強い輝きを宿すその目に思わず見惚れた。少年らしさを残す小さな手を差し出しながらケイは笑う。目を閉じれば蘇る鮮明な記録。それが楽しみなのかなと呟き、夕月は寝返りをうち聖に背を向けた。
 多分その約束はもはやケイの頭から消し飛んでるはずだと聖は思ったが、口には出さなかった。


 そして、ケイはアコライトからプリーストへと転職を果たす。
 姿見に映った己の姿を眺める。そこに気弱なアコライトの姿はもうなかった。夕月とももうそれほど背丈は変わらないだろう。手を軽く握り少しずつ力を込めてみる。張りつめる筋肉を感じた。
 ケイは決心をする。あたって砕けろだ。






「何か用事?」

 律儀にカーテンを引いた薄暗い室内。聖の部屋である。手元から視線をあげ、夕月は突然の来訪者を迎え入れた。部屋の主は居間の定位置に腰掛け、あたたかな陽光の中で本を読んでいる。
 仄かな灯りをともすランプの下、夕月はベッドに腰掛け製造した短剣を磨いている最中だった。ケイはベッドに近寄ると、夕月の隣に腰を下ろした。

「……抱きたいんだ」
「え」

 丁寧に磨かれ銀色に光る短剣を夕月の手から取り上げると軽く放り投げた。ゆるい放物線を描くその軌跡を目で追い、床に吸い込まれるようにストンと刺さるのを夕月はぼんやりと見届ける。強い力で寝台に押し倒され、視線がケイの目とぶつかった。強い意志の、真っ直ぐで、熱い眼差し。

「ちょ、ケイ! なんで?!」

 我に返った夕月が途端に暴れ出す。きつく手首を掴んでいる手をふりほどこうともがく。ケイは全体重をかけて押さえつけ、強靱な力を宿す左手を寝台に縫いつけた。
 手を離してと夕月が声をわずかに荒げた。訝しげな声音に焦りと怯えが滲み始める。聞く耳も持たず、そもそも必死すぎて聞こえてないのかもしれないが、ケイは手を弛めない。

「いい加減に、しろっ!」

 驚きと混乱に戸惑っていた夕月もとうとう堪忍袋の緒が切れたのか、のしかかるケイの鳩尾に膝蹴りを喰らわした。手加減無しの一撃だった。不意打ちの反撃をまともにくらったケイの手は夕月の拘束を解き、息が詰まる苦しさに胸元をきつく鷲掴んだ。ハッと息を呑み目を見開いた夕月が、あわててケイのふるえる肩に手をかけようとして思い留まる。軽く唇を噛んで目を逸らした。苦しそうに呻きうずくまるその身体をおしのけ、起きあがる。

 しかしケイもまだ諦めていなかった。腹をくくったのだ、ここで引くわけにはいかない。痛みに濡れる視界がブラックスミスの背中を捉える。ふるえる手を伸ばし夕月の右腕を掴むと、力の限り強く引き戻した。不意を突かれ傾ぐ身体を引き倒し再び覆い被さる。利き手である左腕が丁度自身の身体に阻まれ抜き取れない。ケイは力任せに夕月の右腕を後ろ手にねじり上げた。

「……っ」

 関節がわずかにずれる感触。夕月が堪えきれず小さく呻く。シーツに押しつけられる横顔は上気し、じとりと汗が流れ、眉間を寄せ目をぎゅっと閉じていた。抵抗が止まり、ただ乱れる呼吸を繰り返している。それに合わせシャツの合間から見える胸が上下する。ひどく扇情的だった。ケイは吸い寄せられるように、しっとりと汗ばんだ首筋に唇を押し当てた。歯を立て所有印を刻む。びくりと身を竦ませた夕月が、逃れようと身を捩る。それは拘束されている右腕に更なる負荷をかけた。骨が軋み悲鳴をあげるように痙攣する。

「夕月、やめろっ」

 怒鳴るように静止の声をあげる。しかし夕月は抵抗をやめようとしない。これ以上互いに反目し続ければ、その間に挟まれた右肩が外れるか、腕が折れるだろう。ケイは迷わず拘束を解いた。強い力で振り払われ、二人の身体が離れる。
 夕月はするりと身体を起こすと傷む右肩を押さえながら、警戒した眼差しをケイに向けている。乱れる髪、しわくちゃのシャツ。薄く充血した双眸。甘い濡れ場には程遠く、取っ組み合いの喧嘩をした後のような有様だった。


 ケイから目を逸らさないまま、夕月はゆっくりと後ずさる。距離をとる。その背に熱が当たった。弾かれたようにふり向くとそこに聖が立っていた。ケイはバツが悪そうに視線を逸らす。
 ロードナイトはいとも容易く夕月の両手首をひとまとめにすると片手で拘束する。顎を掴み引き寄せると、強い力に逆らえず夕月は寝台の上で膝立ちの姿勢を余儀なくされた。

「詰めが甘かった、かな」
「…………むぅ」

 ケイを見遣って聖が一言そう評した。ケイは不服そうに呻く。
 強く掴んでいるようには見えないのに、抗う夕月はその腕から抜け出せないでいる。聖の手が夕月の首にやんわりとかかり、細くしなやかな指の先が顎を持ち上げる。首筋についた赤い痕に、薄く微笑む唇がゆっくりと焦らすように近づく。舌先で舐めついばみ甘く噛んでから、きつく歯を立て吸い上げた。夕月の白い喉が仰け反る。己がつけた所有印を上書きする行為に、思わずケイは聖を噛みつかんばかりに睨みつけたが、悪戯っ子のように邪気のない笑みで返されては恨む気力も失う。
 聖が手を離すと、夕月は黙ったまま部屋を出て行った。


「おい、良いのかよ……」
「大丈夫。いつもの場所に行っただけだ」

 二人してよってたかって夕月を傷つけたようで、何を今更だがやはり心が痛む。盛大に溜息を吐くと仰向けに寝転がった。膝蹴りを喰らった鳩尾はまだ鈍痛が続いている。目を閉じると、夕月の警戒に満ちた眼差しがズキリと突き刺さった。性交渉を嫌うとは分かっていたが、心の片隅でもしかしたら俺になら……と自惚れていた独りよがりがあったのも事実だ。目頭が熱くなるのを感じ、両腕で顔を覆う。

「腕の一本に躊躇ってたら、夕月は押さえられないぞ」
「……俺は夕月を傷つけたいわけじゃない」
「説得力に欠ける発言だな」

 聖は寝台に腰掛け上体を捻って、折角の真新しいプリーストの法衣をくしゃくしゃにしたケイを見下ろし、揶揄するように笑った。初めて耳にする聖の笑い声に、思わず腕を退けまじまじと見上げる。朗らかで耳に心地良い声音だった。
 聖のしなやかな指が、揉み合ってるうちに爪があたったのかプリーストの頬に残るひっかき傷に触れる。労るように慰めるようになぞりながら、夕月にヒールをお願いできるかいと請うた。その言葉に弾かれたようにケイは起きあがる。思わず痛みに呻いたが、全速力で部屋を飛び出した。




 泉のほとりに夕月が座りぼんやりと水面を眺めていた。水面に映った青い空を見ているのだろう。ケイに気付いてるはずなのに、黙ったまま視線を上げようともしなかった。赤い痕を残す両手首が痛々しい。

「……ごめん、痛くして」

 視界を遮るように夕月の前にしゃがみ込み謝ると、僕も蹴ったからお互い様、と夕月は視線を横にそらし小さく言った。頑なに視線を合わせようとしない姿が、まるで幼子が拗ねてるようで思わず笑みがこぼれる。かなりきいたと戯けて笑ってみせると、夕月もかすかに笑った。

「肩見せて」

 大丈夫と首をふったが、ケイは構わず胸元の開いた白いシャツをめくり肩辺りまでずらす。そこは赤く腫れあがっていた。すまなそうに眉をひそめ、そっと肩に触れる。痛んだのか、触れた手の冷たさか、夕月が小さくみじろいだ。
 ケイの祈りが、あたたかな癒しの光となって肩の傷を癒やす。ケイのヒールは強くて優しい。スキルは思いや願い、祈りの結晶だ。特にヒールはそれが色濃く表れるスキルの一つだった。真っ直ぐで強くて優しい、ケイの人柄を伝えてくる熱が夕月の身体をすみずみまで満たす。全身の痛みがスッとひいていくのを感じながら、すぐ間近にあるケイの唇がごめんと呟き、でも……と続くのを、夕月は視界の端で見ていた。

「次は、抱くから」
 耳元にケイの吐息を感じる。夕月は目を伏せ弱々しくかぶりをふった。
「僕は嫌だ。やりたければ聖とやればいい」


「おまえのことが好きだから。おまえじゃなきゃ嫌なんだ」
 自分でも驚くほどするりと言葉がでた。
 夕月はぎゅっと目を閉じ、何も答えなかった。




 
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