「ご、ごめんなさいっ!」 残念な、そうとても残念な青箱の残骸を差し出して勢いよく頭を下げたのは、窓から夕日が差し込むオレンジ色の宿屋の一室。 うさぎさんに下手な言い訳は通じない。ってか返って逆効果だ。俺は男らしく潔く、そしてなにより深々と頭を下げた。 その後頭部にどっしりと重みがきた。俺の頭に肘を置いて容赦なくぐりぐりしながら、うさぎさんが溜息を吐いたのが分かる。くるぞくるぞと次なる衝撃に備え、ぎゅっと目を閉じ勿論歯も食いしばる。しかし待てど暮らせど何もなかった。何もなかったのだ。 あえて、もう一度繰り返そう。……そう、何も、何もなかったのだ。 「…………?」 頭にのし掛かっていた重みが消え、恐る恐る目を開きチラリと横目で覗うと。部屋に備え付けられている狭い簡易キッチンに向かう、うさぎさんの背中が見えた。
“Bad Sweet” 2009.11.18 食事担当は、実はうさぎさんだ。 天は二物をなんちゃらとか言うらしいが、カミサマとやらはことごとくこの男がお気に召したらしい。涼しげな顔で何でもそつなくこなすうさぎさんは、料理も当然のようにできる。しかも凝り性で、かなり美味い。顔も良く飯も美味い男なんて、ポリンでも食わねーよバーカバーカ。くそぅ。 どうやら、うさぎさんはかなりご機嫌らしい。顔はいつもの無表情に近いそれだが、雰囲気がとてもやわらかい。これもひとえにあのハイプリーストに昼間出逢ったおかげか。うさぎさんの想い人である、天使のようにキレイなハイプリースト。そのふんわりとした笑顔を思い浮かべ、俺は胸の内でありがたやありがたやと拝んでみた。 しかし、ここで調子に乗ってはいけない。あくまでもしおらしくいかにも反省してますってナリで、おとなしくしているのが得策だ。いつもの調子で手際よく飯準備をしているのだろうその背中に近づき、愛想笑いを浮かべながら声を掛ける。 「うさぎさーん、俺も何か手伝うy……っ!!!」 ひょいっと肩越しに手元を覗き込んで、思わず息を呑んだ。俺を取り巻く全てのモノが凍り付き、背中に伝う冷たい汗だけがじとりと流れ落ちる。 「え? えっ……と」 「ああ、これか。イリアがくれた」 今すぐにでも目を背けたいのに、恐怖を前にして人はなんと無力なことか。釘付けの視線は、忌々しき大量のニンジンにピタリと張り付いたまま動かせない。無駄に美声なうさぎさんの声が、やわらかなエコーを伴って鼓膜をくすぐる。ちなみに、イリアとはうさぎさんの想い人であるハイプリーストの名前だ。 「アイツがよく手伝いに行く孤児院から貰ったそうだ」 昼間あの場から一刻も離れたいと思ったのは、コレか!コレだったのかっ! 人類の敵最大の敵ニンジンから毒電波でてたのかっ! 「喜べ、今日は人参づくしの料理を作ってやる」 「…………うぅ」 「まさか逃げたりとか、残したりとか、勿論しないよな?」 「…………うぅぅ」 何故人は恐いモノを見たくなるやっかいな生き物なのか。ぎしぎしと音を立てて、首ごと視線をニンジンからうさぎさんに移した俺は案の定、深く深く後悔した。 思わず見惚れるような微笑みに、手に握られた包丁の刃がキラリと光って、底冷えするほどに紅く緋く澄んだ瞳が煌めく。 俺、南無……。 *** 「……はぁ」 イズルードは本日も晴天なり。 澄み渡る青い青い空が憎らしい。海鳥のかしましい声も憎らしい。なにより隣にいる涼しげな表情のうさぎさんが憎らしい。 げんなりと溜息を吐くとニンジン臭い。気持ち悪い気分も悪い体調も最悪だ。深呼吸でもしようと新鮮な空気を吸い込んでみるものの、吐き出す息はニンジンに毒されていた。ぐらりと目眩がして石畳にへたり込む。 「こんにちは」 清々しい声に見上げた視線の先。今日も良いお天気ですねとふわりと微笑むのは、うさぎさんの想い人であるハイプリースト。諸悪の根源である。 「ああ、人参美味かったよ」 「良かったです。沢山収穫できたそうで戴いたのですが、流石に私も食べきれなくて」 困ったように微笑むハイプリーストは、まさにイイヒトそのもので。しかも顔色が優れないようですが大丈夫ですかと心配そうに覗き込んでくる視線は慈愛一色で。 そんな人を恨む俺って、俺って……。 「ああ、昨日全部食った」 「え……、あれだけの量を……?」 いたたまれなくなってがばっと立ち上がると、俺は駆け出す。 「ごめんイリアさん! お、俺、依頼とってくるうう!」 「え? あ、はい、気をつけて」 驚いた様子のハイプリーストと意地の悪い笑みを浮かべるうさぎさんを残して。 駆け出しの冒険者達で賑わうアカデミー自習室に足を踏み入れ、桃色のふわふわとした髪を束ねた後ろ姿を見つけた。ルーンという名の教官は、数人のひよっこたちになにやら指導しているらしい。こちらに気付きちょっと待っててと声を掛けられ、俺は頷いてから少し離れた場所に座り込んだ。 手持ちぶさたに周囲を眺める。重々しく冷たい石造りの内装に埃っぽそうな本棚。誰だよコイツといつも見上げてしまう無駄にでかい石像。 そもそもいつ誰が何のために建てたのか分からないらしいアカデミー。学びの場というには温かみがなく、何か薄ら寒いべっとりとしたモノがこびりついてる気がして神経を逆なでする。それはニコニコと微笑みながら近づいてくるルーンという名の教官にも言えたことであって。 俺は立ち上がると、一定の距離を置いてルーンという名の教官を迎えた。 「ごめんねお待たせ、こんにちは」 依頼ね?と確認され、頷いた。 「んー、モンスターの写真を撮って欲しいって女の子からの依頼があるけれど、どうかな?」 「mobフェチ?」 「こらこら」 冒険者に憧れてるみたいだけれども、うーん、もしかしたら病弱で冒険者になりたくてもなれない子かもね。どう、やってみる?と問われ、再び俺は頷いた。 「んじゃ、冒険者カードだして」 依頼内容のデータを転送された冒険者カードによると、どうやら依頼主はゲフェンにいるらしい。未だハイプリーストと喋ってるのかパーティ情報曰くイズルードから動いていないうさぎさんに、ゲフェンに向かうことを告げた。 病弱どころか元気溌剌とした少女は、ネオストと名乗った。青い髪をちょこんと結び、明るい光をたたえる大きな瞳はいかにも好奇心旺盛といった感じで。 「やあ、君が僕の依頼を受けてくれる冒険者かい?」 「あぁ、うん」 物怖じしないさばさばとした物言いに、俺は思わずたじろいだ。 「やっぱりね! そうだと思ったんだよ。僕は将来冒険者になりたいと思っているから。君の服装をみてピンと来たわけさ」 「でもさ、親がうるさくってさ。僕の歳でも色々冒険している人沢山いるのに、勉強しろ勉強しろってね。それで、冒険者になる為の勉強をしていても怒られるし、集めた資料だって一度全部捨てられちゃったんだ」 ひどいだろ?と肩をすくめ相づちを求めてくるネオストに、俺は曖昧に頷いた。 俺は親を知らないから、どんなものなのか分からない。 でも、子供が大切にしているものを捨てるのはひどいことだとは分かる。なんでそんなことをするのか分からないけれども。 嫌い、だからなのだろうか。 「だから、今資料を集めなおしている最中なんだよー。その資料集めの手伝いを君にお願いしたくてね。というわけでよろしく頼むよー。今回は、ボスモンスターのエクリプスの写真を撮ってきてほしいんだ」 複雑な心境の俺をよそに、ネオストは嬉々としてカメラを取り出すと、俺の手にぽんと置いた。 *** 足が地面から浮いて、あっと思った瞬間には鞭のようにしなる蔓に手足を絡みとられ、身体ごと引きずられていた。大量発生したのか誰かが故意に集めたのか、周囲を見遣ると大量のマンドラゴラが淡い桃色の花を咲かせ、うねうねと気持ち悪い動きをしながら蔓を伸ばしてくる。 喉奥から短い悲鳴が押し出される。全身の皮膚という皮膚が一気に粟立った。 低レベルのマンドラゴラの攻撃はたいしたことはない。たいしたことはないが、何本もの蔓が絡みつき、足掻いても藻掻いても抜け出せない。焦る手でポケットを探ったがハエも蝶の羽もなかった。 うう、なんで補充してないんだよ。俺の馬鹿……。 「ちょっ……」 うっかりハエも蝶も忘れたのはニンジンのせいだ。この気持ち悪い蔓も絶対ニンジンのせいに違いない。現実逃避しかけた脳を現実に引き戻したのは、衣服の隙間から侵入してくるけしからん蔓。顔から一気に血の気がひく。さすがにこれは洒落にならない。 パニックと生理的嫌悪にもう無我夢中で藻掻いた。 『う、うさぎさ……ん、……』 俺は無意識にうさぎさんの名を呼んでいた。訝しそうな気配を感じたが、どうしたと問いかけるいらえはなかった。 下腹部に絡みつく蔓が鈍い痛みをくわえる。思考とは裏腹、反応し始めた正直すぎる身体に羞恥で死にたくなる。甘い疼きに痺れる指は、蔓を引き剥がそうとしているのか縋り付いてるのかもう分からなかった。 「メテオアサルト」 ぎゅっと閉じていた瞼にも映るほどの鮮やかな紫の閃光。うさぎさんの低く張りのある声と同時に身体の拘束が解けた。地面に蹲り乱れる呼吸を繰り返し、ぼんやりと霞む視界で見上げるとうさぎさんの呆れた表情。 「……さんきゅ」 仮にも転生職がマンドラゴラにやられそうだったという図はかなり格好悪い。 力なく地面にのたうつ蔓の残骸を除けて、うさぎさんと目を合わさぬよう俯き加減で起きあがろうとしてはたと気付いた。下腹部の熱はいまだおさまっていないことに。 布地の上からもそれとわかる反応に、どうしようもない羞恥と焦りが顔から血の気を引かせる。さすがにこの状態で歩くのはきつい。静めてしまうのが手っ取り早い方法ではあるのだが……。 「ごめん。ちょっと……」 同じ男なんだから生理現象で悟ってくれるだろうとはいえ、自慰行為とはいかにも無縁そうな無駄に整った顔のうさぎさんに告げるのは気恥ずかしく口ごもる。うさぎさんに背を向け、力ない足取りで木陰に行こうとしたその肩を掴まれ。よろける身体をなんとか踏ん張って振り返った。 「な、何?」 「ここでぬけばいい」 「……は?」 一瞬、思考が真っ白に凍りつく。……何を言ってらっしゃるのでございますかこの男は。 「ほら、やらないのか」 大変なことになってるぞと揶揄する声が上から。背後から腕を回され、布地の上から悪戯に触れてくる。思わず身体が前に倒れそうになるのを、手近にあった大木に手をついてこらえた。 「ちょっ」 うさぎさんの白くほっそりとした長い指が素早く下肢の隙間へと滑り込んでくる。直に触れてくる冷たい指にビクリと肩がふるえた。 「っ……」 嫌だとかぶりをふると、きつく熱を握り込まれた。 ここはそう言ってないみたいだがと、無駄に良い声で囁くアナタはどこのエロオヤジですか……。 完全に面白がっているうさぎさんはどうやら止める気はないらしい。これは無駄に抵抗せずさっさと観念して終わらせてしまった方が良さそうだ。 「わ、わかった……から」 自分でやるから、だから手を放して、と。時にきつく時にやんわりと気ままに扱く指を追い出そうと、ついでに背中に感じるうさぎさんの体温も身を捻って押し退ける。人の温もりはやっぱり気持ち悪い。それは例えうさぎさんであっても感じることだった。 しかしそれ以上の強い力で返され、伸ばされたもう片方の腕が俺を追い越して幹に肘をつく。背後から押さえ込まれ、前を握られた状態ではどうすることもできず。うさぎさんの体温と木に挟まれ身動きが阻まれた状態、一瞬どこから沸いたのか得も言われぬ恐怖が背筋を駆け上がった。 「やめっ……」 「何を怖がってる」 制止しようとした声がかすれ、うわずる。 「素直に感じておけばいい」 温度の低い落ち着いたうさぎさんの声が耳朶をくすぐる。戯れでなく、愛撫するように刺激を与えるように動き始めた指に、熱がゾクリと沸き上がる。 「ん、っ……」 痺れるような快感に、呼吸が止まった。 *** 透き通る青い空に淡い輝きを編み込む陽光は、アサシンクロスの秀麗な横顔に葉陰を刻む。その身体に腕に支えられ、木肌に縋り付くように爪を立て喘ぐのはチェイサー。声を洩らすまいときつく歯を立てるもう片方の手に、唾液と血液が伝う。深く俯く黒い髪の合間、朱に染まった耳元が扇情的な香を放っていた。 強い刺激に思わずこぼれ落ちた艶のある嬌声は、風に揺れ木の葉が掠れる音にかき消える。泣いてるのかこぼれ落ちた涙が、青い草の葉に弾かれ大地に吸い込まれた。 苦しくて不安で恐くて怖くて涙に滲む視界で縋るように見上げると、うさぎさんの緋色の瞳が、その瞳が快楽の熱にかすかに潤んでる気がして。整った顔を彩るのは、ぞくりとするほどの誘惑に満ちた色気。 こんな表情をさせているのは、あのキレイなハイプリーストではなく、俺だということに。紛れもなく自分であることに、背徳的な悦びが快感となって、堪えきれず目を閉じた。 なに考えてるんだ、俺……。 俺の動揺を感じ取ったのか何か別のことが可笑しかったのか、クスリと小さく笑ったうさぎさんの艶のある吐息が耳におち、思わず身を竦ませる。 「やっ、……もう、駄目……、っ」 乱れる呼吸に阻まれ、言葉さえもままならない。支える手にはもはや力が入らず、足ががくがくとふるえ、崩れ落ちそうになる身体をうさぎさんが支える。 「達くか?」 うさぎさんの囁きに、形振り構わずコクコクと頷く。もう限界に近い昂ぶりに、上体を捻りうさぎさんの首に両の腕を回した。その肩口に顔を擦りつける。 うさぎさんと俺の体温が混ざり合い溶け合い、どれだけ腕に力を入れてもうさぎさんにふれることができなかった。 「っ!」 視界が真っ白に染まり、痛いほどの強烈な快感と共に欲望を吐き出していた。浅い呼吸を繰り返し、脱力した身体は力なくうさぎさんに寄りかかる。熱が去ってしまうと、残されるのは羞恥と後悔で。居心地悪そうに身じろぎ、俯いたまま視線を上げることができない。 そんな目の端に白濁した残滓で汚れた手がゆっくりと持ち上がるのが映り、つられたように吸い寄せられるように視線が上がる。うさぎさんは悪戯な光をちらつかせる視線で俺を捕らえたまま、見せつけるように残滓に舌を這わした。全身の血が一気に顔に集まり頬が熱くなる。 「人参の味がするな」 「っ、…………舐めンな……」 気恥ずかしくて睨みつけると、うさぎさんが僅かに目を細めそして口の端を吊り上げるそんな笑みを浮かべた。余裕綽々なうさぎさんが悔しくて恨みがましくて、転がっていた荷物から引っ張り出したタオルをその無駄にキレイな顔に投げつけた。 「……エクリプス探さないと」 もう速効宿に戻ってきれいさっぱり忘れるまで酔いつぶれたい気分だったが、依頼完了しないまま帰るのも癪に障る。さっさと探して写真撮って帰ろうと甘い痺れを残す気怠い身体を奮い立たせた。 エクリプスが生息するこの広い森は自由気ままに木が生い茂り、どんな地殻変動をしたのか高低も多い。冒険者カードで方角を確認しながら、テレポートやハエの羽を使って抜けるのが一般的だ。 「俺ハエないから歩いて探すから、うさぎさんテレポでお願……」 「その必要はない」 「へ?」 「すぐに見つかる」 「はぁ」 何でもできるこの男に、とうとう超能力まで備わったのか。 俺が歩き出すとうさぎさんもついてくる。あんなことがあった後では、これはもう拷問に近い。過剰にうさぎさんを意識している自分が気恥ずかしくて、視線は不自然なほどに落ち着かず、右手と右足が一緒に出るそんな歩き方をするぎくしゃくさ。チラリと横目でうさぎさんの様子を覗うと、何事もなかったような普段と変わらぬ表情。 何故か足下にじゃれついてくるルナティックを適当にあしらいながら、インティミデイトの使用を本気で思案したまさにその時。軽い地響きと共に現れたのは白い毛の塊だった。 「ほらな」 「…………まじ?」 白いふわふわした数匹のルナティックを伴うのは、薄青い毛をしたエクリプス。今回の依頼の対象を目の前に俺は呆けたように、ピョンピョンと愛らしく跳ねながら近づいてくる毛の塊を見つめた。 「おまえがそれだけ人参の匂いをさせてたら、向こうからやってくるに決まってるじゃないか」 「俺、餌っ?!」 ハッと我に返り咄嗟に逃げようとした身体に、一目散に突進してきたエクリプスとルナティックたちが勢いよく体当たりしてきたのは同時だった。軽くふっとび押し倒され、のしかかるふわふわとしたやわらかな毛に、敏感になっていた身体はあまりに無力だった。 「た、助けて」 助けを請い涙目で見上げると、うさぎさんは見事な美しさで鮮やかに艶やかに微笑んだ。そしていつのまに抜き取ったのか、ネオストから預かったカメラを取り出すと写真をぱちりと撮る。 「依頼完了だな」 また報酬が青箱に消えたら困るからな、俺が報告しておいてやる、と。 そう言い残し蝶の羽を握り潰したうさぎさんは、俺の目の前から消えた。 「ちょっ!!」 ううう、もう絶対にうさぎさんを怒らせないようにしよう……。 それは何度目かの決意。 窓から夕日が差し込むオレンジ色の宿屋の一室。 必死の思いで帰路についた、全身に真白な綿毛まみれでぼろぼろになったチェイサーの泣き濡れ赤く腫れた目、その視線の先。涼しげに笑うアサシンクロスと、温められたモロク果実酒が入ったマグカップがテーブルにコトリと置かれ。 優しげな湯気がふわりと漂うそんな夕暮れ。 |