「ハチにさっさと死んでもらいたいんだろう?」

 かつてのパートナーであったロードナイトが口元を薄く歪め、意地悪く微笑む。
 この男がまだプロンテラ騎士団第一師団団長であった頃、私は守護者としてその傍らにいた。最強の第一師団を率いた男。高潔な人格者であり、騎士団随一の剣の使い手であり、気さくで温和な物腰に人望も厚かった。そんな絵に描いたような聖人君子の他面で、ごく親しい者にだけ皮肉屋な顔を垣間見せた。世間に対して斜に構え冷めた目が傲慢に見下す、私はそんな男をいたく気に入っていた。
 あの事件がなければ……、いやそんな仮定はいい。この男は騎士団を去った。私達はまだ若かったのだ。良くも悪くも。

「そうですね、そうなってほしいと思っています」

 私があの子を育てたのだ。誰の手にも懐かず、どんな力にもおもねらない。決して群れずひとり凛と立つその姿は気高く美しかった。艶やかな容姿だけでなく、アレッシオは人を惹きつける何かがある。惹きつけるなどと生易しいものではない。己のものだけにしたいという独占欲を抱かせるのだ。

 この男が何度も私を訪ね、もうずいぶんも前からシーフのことは知っていた。そのシーフが待っているという相手がアレッシオだろうと私も感ずいていたが、会わせる気は毛頭なかった。今にも割れそうな薄氷に危うげに立つあの子にとって、シーフの存在は害をなすものでしかなかったからだ。


 しかし先日のこと、新たな門が開かれ初めて執り行われたアークビジョップの儀式に、アレッシオだけが転職を許されなかった。
 私よりも、誰よりも先にハイプリーストで持ち得る全ての力を手に入れていたというのに。神の代理人は、「貴様の中に悪魔がいる」とそう告げたのだ。
 悪魔とはシーフのことを意味してるのだろう。それを踏みつけ超えない限り、アレッシオはその先へ進むことができない。あの子はもっと強くもっと美しく輝ける特別な存在なのだ。それを邪魔するシーフの存在は疎ましかったが、その寿命がもはやないことだけがせめてもの救いだった。

「転生はできません。彼の命はあとわずかですよ」

 そしてシーフが死んだ時、あの子の足枷が外れる。アークビジョップは目を細め、薄く微笑む。

「奇跡、を信じるんだろう?」
「奇跡などありません。貴方だって知っているでしょう?」
「……」

 そう奇跡はおこらない。神などいないのだから。




 “Love Me,Fool Me”
2010.11.18




「ロイ! あのひとが、ノービスだったんだ!」
「……へえ、そりゃ良かったな」
「うん、本当にびっくりした! あんなにきれいになってたなんて!」

 転生職でオーラなんてすごいよね!一緒にいたひとも、何だっけ……、三次職だったし!文字に置き換えたら喋る言葉一語一句に感嘆符がついてそうなそんな勢いで、隣を歩くハチが嬉しそうに笑う。あまりに興奮するから息切れして、ロイは分かったから落ち着けと苦笑した。

「まあ、おえらいさん方だからな。俺達とは別次元のやつらだ」
「うーん? ロイもすごいと思うけれど?」

 「転生してるし強いし、いつもえらそうだし」「ほう、言うじゃねぇーか」小首を傾げるハチの頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でる。

「やっと会えて残念だが住む世界が違うんだ。もう会えないとは思うが」
「あ、うん。無事だと分かっただけで十分だよ」

 強がってるわけでもつっぱねてるわけでもない、ましてや卑屈になってるわけでもない。本心からそう思って頷く姿がロイの目に痛々しくうつる。その頭を胸に引き寄せた。

「よし、帰ってさっきの続きでもするか!」
「さっき?」
「ストリップしてくれるんだろ? ベッドの上で俺を色っぽく誘ってくれ」
「ロイッ!!」

 あんなに小さくて頼りなかったノービスが立派になっていて、それに比べただ待ってるだけで何もしなかった俺は、デザートウルフからも守れなかった時のまま変わってなくて。誰かを本当に守りたいのなら強くならないといけなかったのだと、今頃になって気づくなんて馬鹿だなと思った。
 もう会えないとロイは言うけれど、そもそも会うことはもうないんだと思う。俺はノービスに会えたからだからこれ以上会う理由もないし、あのひとも俺とは全然違うすごいひとだから別に俺と会う必要はないだろう……なのにそれなのに、


 どうしてこのきれいなひとは、まだ俺の目の前にいるんだろう。


 困惑したシーフの伺うような視線に笑い返したいけれど、手元の書類から視線が上げられない。やりかけの仕事に熱中してるわけじゃない。一向に頭に入らず、目は繰り返し繰り返し同じ文字の羅列をなぞっているだけだ。
 ギルドマスターの許可を得て、ハイプリーストはシーフのそばを陣取っていた。そばというには少しだけ距離があいていたが。あからさまに嫌悪感を露にするロイという名のロードナイトほどではないが、歓迎されてない雰囲気がギルドベース全体を蓋っていた。
 嫌悪や敬遠といった、アコライトの時から晒されていたその種の視線は慣れているはずなのに、自業自得だと分かっているのに、つらくてつい俯いてしまう。
 シーフが砂漠へと続く外門へと目を遣りかけ、もう待つべきノービスは現れないことに気づいて、困ったように視線を彷徨わせている。シーフに迷惑をかけていることも分かっている。分かっているけれどでも、それでも……。
 小さく歯を食いしばり睨みつける紙面にモロクの容赦ない日差しが反射し、目が痛かった。

「……木陰に入ったほうがいいよ」
「でも、そこ君の場所だろう」
「俺は別の場所いくし」
「だめだよ、……僕はここで大丈夫だから」

 いかにも控えめなシーフが選びそうな細く痩せた木は、人ひとりぶんの影しか落としていない。もちろん見渡せば無人の木陰などどこにでもあるのだが、シーフのそばにいなければ意味がない。許しを請うて償ってもう手遅れかもしれないが新たな人生を歩む手助けをして……、
 いやそんなんじゃない。こんなことなんでもなかったのに耐えれたのに、冷たい視線がこの疎外感が居た堪れなくて、だからただ単にシーフにそばにいて欲しいだけなのだ。
 夢の中で散々君を悪者にして縋ってきたというのに、まだ懲りずに僕は君に逃げようとする。愚かにも卑怯にも。

「……俺の隣でいいなら、」

 弾かれたように顔を上げる。きれいな目とぶつかり反らされた。それでも気にせず呆然と見つめるハイプリーストの視線の先に、細いシーフの身体の右半分が日差しに照らされていた。
 身体を少しずらして僕のためにあけてくれた、君の隣。
 ハイプリーストは吸い寄せられるように近づき、その隣にそっと腰を下ろした。わずかに触れた肩が互いに強張るのが恥ずかしくて思わず目を閉じた。

「……ありがとう」

 声がふるえる。君の場所を分けてくれたことに。こんな僕を隣に座らせてくれたことに。
 膝を抱え俯きがちに隣にいるシーフの体温が心地いい。その伏せた遠慮がちな視線が、紙面をなぞるハイプリーストの指先を追ってくるのがなんだかくすぐったかった。
 交わす言葉もなく小さな木陰に並んで座るふたりに、モロクの乾いた風が吹き抜けていく。




 ハイプリーストがモロクで迎える初めての夜は、ギルドメンバーのオーラ祝いでお祭り騒ぎだった。主役であるバードが勢いに乗って好きな子に告白しOKをもらうとさらにそのボルテージはうなぎのぼりに上がっていった。
 シーフも賑わいの中心へと引っ張っていかれ、ギルドメンバーとぎくしゃくとした関係にあるハイプリーストはひとり所在なさげに眺めていた。それでも輪の中へこそ呼ばれなかったものの、さりげなく誰かが飲み物を渡し、グラスが空になるとまた誰かが注ぎ足していった。ハイプリーストの近くの、賑わいから一番離れたテーブルにも、いつのまにか取りやすいように料理が並べられている。
 いいギルドだな、と。香り豊かなモロクの果実酒を一口ふくみ、ハイプリーストは目を伏せ小さく口元を緩ませた。

 ふと人影にまぎれるように、そっとシーフの小柄な姿が離れていくのを目の端でとらえる。ハイプリーストは不審に思いテーブルにグラスを置くと、よろめくような足取りのあとを追った。

 人目につかない路地に入り、シーフは堪えきれず壁に爪をたて倒れそうになる身体を支えた。苦しそうに前かがみになると何度も激しく咳き込む。口元を覆う手から零れ落ちる赤黒い血がねっとりと指の間を伝い、砂の大地に染みを広げていく。
 ハイプリーストは必死の形相で駆け寄り、崩れ落ちようとするシーフを寸前で抱きとめた。シーフはつらそうに眉を顰めハイプリーストの顔を確認すると、己の血で汚さぬようふるえる腕で押しのけようとする。

「……汚れ、る……から」

 さわらないで、と。息も絶え絶えにシーフが請う。無論それをききとげるはずもなく、ハイプリーストは必死で呼吸しようと痙攣する薄い背中をさすった。てのひらから伝わってくるシーフの体温は異常なまでに低く、ハイプリーストの背筋を凍りつかせた。
 やがて弱い力であがいていた抵抗が静まり、腕にかかる重みが増す。ハイプリーストは意識を失ったシーフを少しでもあたためようとひたすら抱きしめる。それ以外どうして良いかわからなかった。

 ふと気配を感じ振り返ると、ロードナイトの姿があった。不愉快そうな顔をされているにもかかわらず、ハイプリーストは思わず安堵の吐息を漏らした。ロイは頭をガシガシと掻き小さく溜息をつくと、ハイプリーストの腕からシーフを奪い軽々と抱き上げる。立ち去り際視線で促され、ハイプリーストはそのあとを従った。



 多分ギルドハウスなのだろうその一階の居間で、連絡を受けたのかアルケミストが準備をしていた。ロードナイトがソファーにシーフを横たえる。窓の外から一際大きなギルドメンバーの歓声が聞こえてくる。つい先ほどまでその場にいたというのに、もはやとても遠い世界に思えた。
 アルケミストはシーフの口元に耳を近づけ時折乱れるものの安定した呼吸を確認し、いくつもの刺し跡を残す細い腕に新たに注射針を刺す。

「今は体力を消耗してるから、もう少ししたらこれを飲ませてあげて。あとこれも。症状も酷くなってきたね……、鎮痛剤の種類を変えたほうがいいな」
「あぁ、頼む」

 ぬるま湯で絞ってきたタオルをハイプリーストに渡し、ロードナイトはもう見慣れた薬を受け取る。目当ての鎮痛剤が見当たらずカートの中をがさごそと探るアルケミストに、「送りがてら、取りに行くよ」と声をかけた。
 「んじゃついでにちょっと変わった酒を手に入れたから渡すよ」と悪戯っぽく笑うアルケミストに、「おいおいまた変なもん入れてないだろうな」と笑い返し、ロードナイトはようやく強張っていた顔が緩んでいくのを感じた。

 ハイプリーストはソファーに眠るシーフに近づき、手渡されたタオルで血で汚れた口元や手を丁寧に拭った。汗ではりつく前髪をかきあげ、苦しかったのだろう一気にやつれた顔を見下ろす。初めて目の当たりにしたシーフの命の期限に、ハイプリーストはかなり動揺していた。

「ハチを見ててくれ」

 そう声をかけ部屋を出て行ったロードナイトに返事したのかどうかすら覚えていない。部屋に二人残され、ハイプリーストはシーフの手を握りながらじっとその寝顔を見つめていた。薬が効き始めてきたのか、蒼白だった顔色に徐々に赤みがさしてくる。
 今まで何度もこんなことがあったのだろう。今回も乗り越えられたが、次の発作的な症状がシーフの心臓を止めてしまうかもしれない。確実に終わりがそこにある。今こうしている間にも、シーフの命はサラサラと零れ落ちていく。時間がない、はやくオーラになって転生させないと。はやく一刻もはやく。

 小刻みに睫毛が痙攣し薄く目を開いたシーフがぼんやりと見返す。少しずつ意識をはっきりとさせていくシーフは血に汚れたハイプリーストの法衣に気づき、申し訳なさそうに謝った。

「なあ、転職しないか」
「……え?」

 握られたままの己の手を不思議そうに眺めるシーフに、ハイプリーストは唐突にそう切り出した。
 意識を取り戻した人間に対し、大丈夫か?とか気分はどうだ?とまずはじめにきくのが一般的ではある。しかしあんなに血を吐いて大丈夫なわけがないし、気分なんて聞くまでもない。それなのにシーフはきっと大丈夫と笑い、また詫びの言葉を口にするだろう。そんな言葉に意味はないし聞きたくもなかった。

「でも、あ……うん、それもいいね」

 目をぱちくりさせてシーフが見上げ、ややあってこくりと頷いた。待つべきノービスはもういないのだから、シーフの姿に拘る必要はもうない。「アサシンにしようかな」と呟き、かっこいいしと照れたように微笑む。「あ、ローグも勿論かっこいいけれど」とあわてて付け加える。
 転生後のその先とかスキルがどうとか、どっちが格好良いとかシーフは考えてもいないはずだ。ラフな軽装のローグよりも、身体にぴたりとフィットするアサシンの装束の方が壊死が進む肌を覆い隠すから、ただそれだけの理由でアサシンを選ぶのだろう。
 今しか見ない君。今しか見れない君。「でも俺じゃ似合わないか」と気弱に笑う君に、「きっと似合うよ」と僕は笑みを作る。




***



「本当に大丈夫か?」
「うん」
「ついていきたいが、結界が邪魔なんだよな」

 「試験官だけならぶっ殺して突破できるんだけれど結界を破るのはちょっときつい」真顔で続けるアレッシオの後頭部を、ロイは無言で殴った。
 そんなことをしたら、ただでさえ危うい関係にあるアサシンギルドと大聖堂のか細い絆を断ち切りかねない。己の立場を考えれば、冗談でも口にしてはいけない発言のはずだ。
 頭をさすりながら横目で睨みつけてくるアレッシオを無視し、ロイはハチの頭をくしゃくしゃと撫でると頑張れよとエールを送る。アレッシオもロザリオをはずすとハチの首にかけた。

「気をつけて」
「ありがとう、いってくるね」


 アサシンへの転職に挑んだハチは試験場へと送られた。
 ダミーに惑わされず指定されたモンスターだけを倒す。そのために育てられたポリンやルナティックがあちらこちらで暢気に跳ねている。このモンスターたちはお日様を見たことがあるのだろうか、空まで続く砂の海を見たことがあるのだろうか。転職するためには倒さないといけないと分かっていても、ハチは躊躇っていた。
 可哀想だから殺せない、でも襲い掛かってくるモンスターは仕方ないから殺す。それは俺の身勝手な言い訳でしかない。

 『転職試験用見本』と名づけられたルナティックを短剣の柄で軽く突き失神させた。ごめんねと白いふわふわの毛並みを撫でそっと腕に抱える。その向こうに何の警戒心もないポリンがぽよんぽよんと跳ねていく。ハチは力を抑えて石を投げ、ピヨピヨと目を回すポリンを抱えあげた。
 こんなことに何の意味もない。俺が倒さなくても次の転職者が倒すだろう。いずれ命を狩られてしまう。でも俺のために誰かを傷つけたくない。どうしても倒さなければいけないなら、転職は諦めよう。あのきれいなひとをがっかりさせてしまうだろうけれど……、ハチは目を伏せる。

 途中で意識を取り戻したルナティックが腕から抜け出そうと動き出す。小さな足がポリンのゼリー状のからだを蹴り、ぴょんと飛び跳ねた。

「あ、だめだって」

 お構いなしに足元を跳ね回るモンスターたちを踏まないよう、逃げていくルナティックを追いかける。落とし穴にバランスを崩しかけ、意識を失うポリンを落とさないよう胸にぎゅっと抱きしめた。捕まえては逃げられ、逃げられては捕まえとおにごっこが繰り広げられる。
 ようやく指定された6匹を捕まえる頃には、すっかり懐いてしまったルナティックが腕の中ですやすやと気持ち良さそうに眠っている有様だった。



「おかしな奴だ、おまえみたいなのは初めてだ」

 どうにか全ての試験を終え、アサシンギルドマスターの元にたどり着く頃にはかなりの時間が経っていた。見えない壁に強く打ち付けたおでこがまだヒリヒリしているし、マスターに呼ばれ立ち並ぶ試験官の突き刺さるような視線も痛かった。ハチはしょんぼりと肩を落とす。

「ヒュイを呼んでくれ」
「はっ」

 控えていた部下に指示し、アサシンギルドマスターは悠然と立ち上がると、俯きがちに立ち尽くすハチへと足を向ける。

「私は転職試験を終えた者に非情な心を与える」

 足音一つ立てず静かに歩み寄る。見守る試験官たちも適度に力を抜いた姿勢で立っているというのにその気配は研ぎ澄まされ、ピンと張り詰めた空間の中で低く重みのある声だけが響いた。

「暗殺者となる道を選び、人間としての感情を全て消した者である証」

 ハチの前で立ち止まったアサシンギルドマスターは、その眼前でゆっくりとてのひらをひらいてみせた。そこにあったのは、短剣が突き刺さった小さな硝子細工の胸像。淡く輝く様は美しくも禍々しい光を放っていた。

「しかし、おまえにはふさわしくない」

 そう言い放ち、無造作に手を握りこむとパリンとかすかな音がした。戸惑いに揺れるハチの目に、粉々に砕け散りきらりきらりと煌きながら床に落ちる硝子の破片が映りこむ。
 アサシンギルドマスターの傍らにひとりのアサシンが姿を現し片膝をつく。ヒュイと呼ばれる年かさのアサシンは、小さく折り畳まれたアサシン装束を渡すとすぐさま姿を消した。アサシンギルドマスターの鋭い眼光に悪戯っ子のような面白がる光がよぎる。

「その腕でこれが着れるか」
「え、」

 先ほどから全く展開についていけておらず、ハチは呆けた表情でアサシンギルドマスターの手元を見つめる。きっちりと畳まれたアサシン装束を無造作に握る指を伝って濃紫の布地をなぞり、よくわからない長く白い帯みたいなものをたどった。見るからにややこしそうで、左手があまり動かないハチにとっていかにも扱いづらそうな代物だった。
 アサシンギルドマスターの揶揄する意味を悟ったハチは青ざめうろたえる。安易にアサシンを選んだ己を恥じた。

「あ、……あの、やっぱりやめます、」
「こらこら」

 すみませんと項垂れるように頭を下げるハチに苦笑を浮かべたその次の瞬間、アサシンギルドマスターはさすがその頂点に君臨する人物だと感嘆せざるをえない手早さでシーフの服を脱がせ、呆然とするハチをアサシンへと様変わりさせていた。

「誰にも脱がせてもらえない時はここに帰って来い」

 緋色のマフラーを細い首に巻きながら、その耳元にくちびるを寄せ「俺が脱がせてやるよ」とささやく。最後にアサシンギルドの印を刻み、転職の儀式は完了した。
 新たな力が身体の隅々を駆け巡り上へと突き抜けていく浮遊感にハチは目を細める。「さっさと行け」と肩を軽く押しアサシンギルドマスターが背を向ける。見渡すと試験官たちの思わぬやわらかな視線があった。




 アサシンの格好は、細身のハチによく似合っていた。新たな力は身体に変化をもたらす。背丈は幾分かのびアレッシオとさほど変わらなくなっていた。顔立ちも少年から青年へと変わりつつある大人びたものへとなり、思わず見惚れるほどの精悍さがあった。なのにハチの顔色は優れない。気遣うような視線に気づきあわてて笑顔を取り繕うが、無理して笑っているのが見え見えだった。疲れたのだろうか。やっぱり後悔しているのだろうか。

「大丈夫か? 疲れた?」
「あ、ちょっと緊張して、……疲れたかな」

 ごめん部屋に戻るねと遠ざかっていくハチの背中を心配げに見送っていたアレッシオは、肩をぽんと叩かれ訝しそうに振り返った。ギルドマスターが笑みを浮かべ、握りこんだ右手を差し出してくる。思わずてのひらを上に向けひろげるとその中に小さな鍵が落ちてきた。飾り気のない銅製の小さな鍵。不思議そうにギルドマスターを見上げると、その笑顔がさらに深まる。

「ハチの部屋の合鍵だよ」
「え?」
「脱げなくて泣きべそかいてるんじゃないかな」
「……あ、」

 壊死のせいだろうハチの左手は単純な動作は可能だが細やかな動きができないことに、アレッシオも気づいていた。ただでさえややこしそうな服だ。ほぼ片手で脱ぎ着するのは容易ではないだろう。困り果てた顔で服を見下ろしているハチの姿がありありと思い浮かぶ。思わず笑みがこぼれた。

「手伝ってきます」

 礼を言って頭をさげ、アレッシオはギルドハウスへと足を向ける。そのやりとりをロイは不機嫌な顔で見ていた。

「ご機嫌斜めだな」
「……ハチは俺のですよ」

 散々ほったらかしておいたくせに、急に割り込んで横からかっさらわれては面白いはずがない。ルワードがあのハイプリーストの肩を持つのも気に食わなかった。くすりと小さく笑われ不満げに見下ろすと、少しずつ小さくなっていくハイプリーストの背中を見遣る長い睫毛がゆっくりとまばたきをする。その碧色の瞳がこちらを見上げ、ロイを真っ直ぐにとらえた。

「おまえは、騎士だ」

 ロイは息をつめた。かつてのプロンテラ騎士団第一師団団長の顔がそこにあったからだ。条件反射で背筋を伸ばす。

「『弱きを助け強きを挫く』それが騎士の務めだ。忘れたか」
「いえ」
「アレッシオ氏も強くはない、おまえが二人を守れ」

 ロイの脳裏に、ハチが倒れたときのあのハイプリーストの顔がよみがえる。どうしていいかわからず途方にくれ今にも泣き出しそうな幼い表情をしていた。転生職でオーラをまとい、大聖堂でもそれなりの地位につくほどの人物だというのに。仮面の下に危うげなほど脆くて弱い素顔があった。あれだとハチの方がよっぽどたくましいだろう。手のかかる奴ばかりだと軽く溜息をつくロイを、ルワードは目を細め穏やかに微笑んだ。

 「頼りにしてるぞ」と肩を軽く叩き労うルワードはいつものギルドマスターの顔に戻っており、ロイは「ういっす」と気の抜けた返事をかえした。




***



 ハチは困りきっていた。あっちこっち引っ張ってみたが、複雑でどうやったら脱げるのか分からない。風呂に入りたくてとりあえず浴槽に湯を溜め始めたものの、このままじゃいつまでたっても入れそうになかった。服が脱げないと言ったらロイに大笑いされるだろうけれど、でも仕方ない。
 大きく溜息を吐き、ロイの部屋に向かおうと扉のノブに手をかけようとしたその時、向こう側からノックする音が聞こえる。開くとアレッシオが立っていた。

「あ、どうしたの?」
「君が困ってると、マスターが教えてくれてね」

 言葉を失いあわてふためく姿につい笑みがこぼれる。ノブに手をかけたまま立ふさがるハチに「入ってもいい?」と首をかしげると、ハッと我に返りこくりと頷いて身体をずらした。
 必要最低限の家具しかない殺風景な部屋だったが、程よく掃除され適度に整頓されていて落ち着いた心地がする。浴室になってるのだろうガラス戸の向こうから水音が聞こえる。アレッシオは部屋の中ほどまで足を進め振り返ると、未だ扉の前で立ったままのハチに声をかけた。

「おいで、僕が脱がせてあげる」
「え、あ、……っ」
「風呂に入りたいんだろう? 湯があふれるよ」

 ハチは幾分ためらったあと、やがて扉をしめるとアレッシオに近づく。ほっそりとしたきれいな指が伸ばされ、アサシン装束を丁寧に脱がしていく。アレッシオのきれいな顔がすぐ間近にあり、ハチは息がかからぬよう顔を背けた。
 何のためにあるのか分からないぐるぐるに巻かれた白い帯が外れ、ゆるめられた濃紫の上衣から素肌がのぞく。その首元でロザリオがチリンと軽やかな音を立て揺れた。

「あ……、忘れてた。ロザリオありがとう」
「君にあげる。そのままつけておいて」
「え、でも、」

 外そうとするハチの手をおさえ「祈りをこめてあるから、お守り代わりに」邪魔じゃなければだけど……と寂しそうに目を伏せてみせると、「邪魔だなんて……!」とあわてるハチを盗み見てアレッシオはそっと口元をほころばせる。

 「身体も洗いづらいんじゃないか?」僕が洗ってあげるよと浴室までついてきそうなアレッシオを必死で押しとどめ、ガラス戸を閉めるとハチは大きく肩で息を吐いた。心臓がやばいほどにドキドキしている。ハイプリーストであるアレッシオが献身的で優しいのは分かるが、これはなんだか心臓に悪い。ハチは火照った身体を浴槽に沈め、もう一度大きく息を吐いた。
 ガラス戸をトントンと叩かれ、小さく返事をしながら視線を送る。カーテン越しに、アレッシオがガラス戸に背を預け凭れ掛かっているのがシルエットでわかる。きれいな声が「言いそびれてたんだけれど、」と前置きをしてから、

「転職おめでとう」
「あ、……ありがとう」

 ハチは首にかかるロザリオをぎゅっと握りこんだ。





 
inserted by FC2 system