「あ、」

 砂に足をとられ傾げる幼いノービスの身体に思わず手を伸ばす。シーフの指がその小さな手に触れ握りかけ、そして咄嗟に手を引っ込めた。
 ぽふっ。
 一面の砂に、ノービスはそれはそれは見事に顔面から突っ込んだ。

「うー……」

 くぐもった声。汗まみれ砂まみれの幼い顔がわずかに上がり、恨めしそうに見上げた。
 己の手をじっと眺めるシーフはそんな視線に気づかない。
 彼に向かって手を伸ばすも気づいてもらえず、ノービスは仕方なくよいしょと起き上がった。パタパタと砂を払い落とし、口の中に入った砂をペッペと吐き出す。髪の毛をわしゃわしゃと掻くと、砂の粒がきらきらと舞った。

 ノービスはアコライト転職のため、何を物好きなモロクで修行をしているらしいシスターマチルダを訪ねる途中だった。しかし不覚にも地図を落とし、右も左も前も後ろも砂しかない砂漠で案の定迷子となり、通りかかったシーフに藁をもつかむ思いで縋り、今に至るのである。
 このシーフを頼ってモロクへと向かっているわけだが、薄情なこいつはというとようやく我に返ったらしく戸惑った表情でこちらを見下ろしている。

「ひどいよ、……まあいいけど。ねえ、モロクまだ遠いの?」

 こけた自分が悪いのだから、人を非難するのは道理が合わない。シーフはこくりと頷いてから、消え入りそうな声でもうちょっとと付け足した。遠いのか近いのかよくわからないいらえである。


「こっち?」

 ノービスはため息をついて、歩き出す。
 その背後から歩き出したシーフは数歩行かぬうちにノービスを追い越していった。背丈が違うのだ。足の長さが違えば歩幅も違う。しかも砂漠に慣れぬ者にとって、一歩を砂から引っこ抜くことが困難で、踏み出した一歩もまた砂の中へと吸い込まれていく。遅れまいと着いていこうとした結果転んだのだが、やはり気づいてもらえないらしい。
 徐々に遠ざかっていくシーフの背中がピクリと揺れ、唐突に歩みが止まった。

「どうしたの」

 まさか君も道に迷ったのと軽口を叩きかけ、息を呑みこむ。砂漠を渡る風の音に混じって聞こえる唸り声。シーフが向ける険しい視線の先に、一匹の大きなデザートウルフ。

「走って。まっすぐ。……モロクで待ってて」

 デザートウルフから視線をそらさないままシーフが言う。でもとか、だけどとか、余計な言葉を出しそうになって呑み込んだ。
 うんと頷くとゆっくりと後ずさり、シーフが指差した方向へと走り出す。それが引き金となったのか、鋭い跳躍を見せ飛び掛ってくるデザートウルフにシーフは身構える。
 思わず振り返った先、鋭い爪と鍔迫り合いするその痩せた右手に握られたナイフはあまりにも頼りなくて。ノービスはぎゅっと目を閉じてシーフから顔を背けると、前を見据え全速力で走った。

「モロクで待ってる! 絶対待ってる!!」

 恐怖と緊張に震えかすれる声。それでもノービスは歯を食いしばり精一杯の声で叫んだ。
 シーフがそれに答えたのかどうかは、彼から背を向けたノービスにはわからなかった。




 デザートウルフの牙が肩口に食い込み、その爪が太ももを引き裂く。
 ノービスがちょっとでも、あと一歩もう一歩でも遠くへ逃げるまでと、シーフはなりふり構わず無我夢中で堪えた。徐々に力が抜けてくる足はやがて上体を支えきれなくなり、砂の上に押し倒されたシーフの上にデザートウルフがのしかかる。
 獰猛な爪が獲物を逃すまいと薄い両肩に深く食い込む。その唾液に光る牙が首にかかろうとするまさにぎりぎりで、シーフは蝶の羽をふるえる手で握りつぶした。


 モロクの砂塵が舞う石畳に崩れるように帰還し、シーフは傷だらけの身体を丸めじっと蹲っていた。息を吐こうとして、肩から胸にかけて激痛が走り小さくうめく。
 今すぐにでも小さなノービスを探しに駆け出したかったが、立ち上がることはおろか息をするのも困難な有様だった。


 モロクで待ってる。絶対待ってる。


 ノービスの必死な声が耳に残っている。きれいで透き通る心地よい声。待っていよう、きっとここに来るはずだから。
 そっと右手を目の前に持ち上げる。ノービスに触れた手。あまりのやわらかい感触に驚いて、思わず手を引っ込めてしまった。このがさがさで硬い自分の手とは到底同じものと思えない、真っ白でやわらかな手。

 掲げた右手のその向こうに、色とりどりの絨毯を飾る露店。
 じっと眺めていたシーフはやがてふらふらと立ち上がり、歩み寄る。露店主は奥に引っ込んでいるらしく人影はない。シーフはそっと足音を忍ばせ足を踏み入れた。
 店の一番奥に、広げられて飾られているとても大きな絨毯。
 それはまるで色彩の洪水のような鮮やかさで、見るもの全て砂色に煙るシーフの網膜を圧倒する。こくりと唾を飲み込み右のてのひらをごしごしと服で拭いてから、おっかなびっくり手を伸ばした。
 数字は読めないが、とりあえずこの数が多いほど高価なものらしい。数え切れないほどいっぱい数字が並んでいるこの絨毯ですら、ノービスの手には遠く及ばなかった。確かにふわふわしてるけれども、ノービスのあの手はもっとなめらかでやわらかい感触だった。

 この絨毯よりも、もっともっと、もっと高いものらしい。
 シーフの心が高鳴った。初めて手にした宝物はとてつもなくすごくて、だから宝物を、ノービスをなんとしても守らなければと思った。
 出てきた露店主に見つかり、こっぴどく罵られ殴られて蹴り出される。再び砂まみれで蹲ることになっても、それでもシーフはうれしかった。砂のついた右手をぎゅっと抱き込む。


 モロクで待ってる。絶対待ってる。
 それはシーフが生まれてはじめて誰かと交わした、約束。




 “Love Me,Fool Me”
2010.11.08




 軽い浮遊感の後、靴先がモロクの地を蹴った。ふわりとハイプリーストの長い法衣がひろがり、踏み出した一歩に纏わり揺れる。
 先を行く師の背を包むのは、アークビジョップの法衣。
 まだ着慣れていない感のする薄青い布地から目を背けた結果、汚らわしい砂塵の世界が視界に入り、ハイプリーストは小さく舌打ちした。

「少し寄り道をしてもよろしいでしょうか?」
「無理です。時間がありません」
「ちょっとだけです。ね?」
「……」

 師の気まぐれは今に始まったことではない。
 足を止め肩越しに振り向く師に、これ見よがしに眉をひそめ渋面の顔をつくってみせた。それが何の効果もないことは十二分に承知しているが。
 案の定、アサシンギルドへと続く南門に向かうはずだった進路はわずかにそれる。淡く発光するハイプリーストは仕方なく、師のあとを付き従った。


「こんにちは」
「やあ」

 師が立ち寄ったのは、どうやら知り合いのギルド溜り場らしい。そこそこ大規模のギルドらしく、見える範囲でも結構な人数のギルドメンバーが思い思いの時間を過ごしていた。
 師の姿に、野蛮なモロクに不釣合いなどこか品のあるロードナイトが爽やかな笑みをこぼす。
 親しげに話し始める二人から少し離れ、ハイプリーストは苛立ちを隠そうとせず剣呑な視線を周囲に投げかけていた。


「くおらああああ、ハチッ!!」

 思わず誰もがふりかえるほどの大音量の怒声が響き渡る。
 眉間にしわを寄せ、煩そうにハイプリーストは見遣る。声の主は大柄なロードナイトだった。

「メシ残しただろう!!」

 ロイうっせーぞ!と怒鳴り返す野太い声、あららご愁傷様とくすくす笑うやわらかな声、あちらこちらから好き勝手な野次が飛ぶ。ハイプリーストはその大股な歩みをつい追っていく視線もそのままに、ロードナイトが木陰に座るシーフへとまっすぐに向かっていくのを何気なしに見ていた。
 怒鳴られたシーフは小柄な身体をすくめ、近づいてくる大男をいかにも気弱そうに見上げる。細い腕をむんずと捕まれ引きずられるように立ち上がったシーフが、困った表情で小さく何か喋ってるがロードナイトの声しかこちらまで届かない。
 その横顔に、シーフのその横顔に、ハイプリーストの視線が凍りついた。目を見開く。

「マスター、見張りよろしくですー」
「心得た」

 大男の呼びかけに、師と話していたロードナイトがいらえをかえす。つられてシーフがこちらを見たが、その視線はハイプリーストの前を素通りしていった。

「…………あのシーフは、」
「うん?」
「いつから、……」


「ギルド結成して40年になるから、」

 その頃にはもういたよ、と。うわ言のようにつぶやくハイプリーストの途切れた言葉の続きを、ギルドマスターであるロードナイトが引き受ける。
 視線はシーフを捉えたまま離れない。ぐいぐいと腕を引っ張られ、ギルドハウスか食堂になっているのだろう建物の方向へと連れられていくのを、ハイプリーストは呆然と見ていた。
 鼓動がはやくなる。口の中が乾く。冷たい汗がじとりと背中を流れ落ちた。


 あの時のシーフだった。間違いなくあの時のシーフだった。一日たりとも一時たりとも忘れたことなどなかった。
 そこそこ重要な部類に入るアサシンギルドとの会合も上の空だった。
 何故シーフがいるのか、何故あの時のままのシーフがいるのか、シーフは待っていたのか、この僕を待っていたというのか、僕がモロクで待ってると言ったからだからあの時のままでずっと。指のふるえが止まらない。
 ハイプリーストは突然席を立つと駆け出す。周囲の不審な声、師の呼び止める声。ざわめきなど何処吹く風。

 アサシンギルドを飛び出したハイプリーストは砂の上を走る。
 舞い散る砂塵にも乱れる法衣にも構わずハイプリーストは走る。意地の悪い砂が、今更走ったところでどうなるのだと、嘲笑うように足をもつれさせる。
 それでもハイプリーストは走った。モロクで待っているシーフに向かって。
 そうだこうやってあの時も走ったのだ。
 シーフに背を向けシーフから一歩一歩離れていきながらも、モロクで再びシーフに会うためにノービスは走ったのだ。シーフに向かって。



 ノービスは砂に何度も足をさらわれ転びながらも、がむしゃらに走った。
 シーフに言われた通りまっすぐ走ってるつもりだったが、何度も転び砂まみれの目を擦っている間に、とうに方向を見失っていた。
 いくら走ってもどれだけ走ってもモロクの外壁は見えず、体力の限界を超えたノービスは、やがて意識を失い倒れる。

 ノービスが目覚めたとき、己の身体にのしかかる複数の気配を感じた。モンスターかと咄嗟に身体を強張らせたが、その正体はどうやら人間であるようだった。
 ホッと安堵したのもつかの間、直に感じる砂の感触、肌を弄る大きな手、すぐそばから漏れる酒臭い吐息に、ノービスは何をされていのか分からずとも本能的な恐怖に息をつめた。
 立ち上がろうにも、身体が鉛のように重く指一本すら動かすこともかなわない。意識がぶれるほど下半身の激痛が酷く、もう腹より下がなくなってるんじゃないかと思うと怖くて恐ろしくて己の身体を見ることすらできなかった。
 震えを止められないノービスに気づいた男達が、さらにその幼い身体を貪っていく。耐え難い陵辱にノービスの意識は再び闇に沈んでいった。

 散々貶められたノービスは砂漠に捨てられ、通りかかった冒険者パーティに保護される。決して短くはない時をかけ身体の傷は癒えても、心の傷は深く膿んでいた。さらにその傷を深く抉るように、好奇と侮蔑の目に晒される。言葉で苛まれ身体で貶められ、アコライトに転職し修道院の生活に戻っても悪夢は続いたままだった。

 心を閉ざし誰をも近寄らせず、孤独に孤高に力を求めていくアコライトを動かすものは、シーフだった。シーフへの激しい怒りだけが、傷ついた彼を支えていた。
 シーフが助けてくれなかったから、いやそもそもシーフが全てを仕組んでいたのだ。毎夜のように、夢に現れるシーフは下卑た笑みを浮かべていた。アコライトは力いっぱい叩き抓り蹴った。それでもシーフの嘲笑は止まらない。
 プリーストへと転職する頃には、単純な暴力は性的なものへと変わっていく。酷い陵辱をシーフに与え、夢精して目覚めるとさらなる嫌悪が増していった。


 そのシーフが、あの時のまま、夢のままに、目の前にいた。
 荒い息遣いにひどい形相なのだろう。シーフがわずかに腰を引き、不安そうに見上げてくる。
 無言で掴みあげた手首は細かった。握り潰してしまえるほどに細くて未熟な少年の手だった。
 転びそうだったときに助けてくれなかった手。
 差し出したその手を掴んでくれなかった手。
 有無を言わせず強引に引き上げ立ち上がらせる。握る手に力を込めると、痛みに強張る様がてのひらに伝わってきた。

 この手が、デザートウルフから守ってくれた、手。


 建物の残骸の陰、ハイプリーストはシーフを突き飛ばすとその上に覆いかぶさった。恐々見上げてくるシーフの汚れない美しい目が怯えて揺れている。夢と同じように、抵抗する手を払いのけ未だふるえの止まらない指で服を剥ぎとった。
 露になったシーフの素肌にハイプリーストは思わず目を背ける。全身に刻まれる無数の傷や痣も目に入らぬほど、皮膚の所々が紫や黒の斑に変色していた。
 夢の中で何度も繰り返し犯した行為のとおりに、首筋を噛みしめ胸元をきつく吸ったが、到底続けられるわけがなかった。

「……っ、どうし、て……ッ!」

 言葉が詰まる。やり場のない憤りに、こぶしを砂の上に叩きつけた。




 どうしてか分からなかった。
 こんな立派できれいなひとが、俺に何故こんなことをするのか分からなかった。
 服を脱がそうとする手を引き剥がそうとしたが、俺の力じゃかなわなかった。

「あ、あの、ちょっと待っ、」

 手を邪険に払われ、砂の上に押さえつけられる。いやだから抵抗してるんだけれども、そういう意味で抵抗してるわけじゃなくて。

「……違う、から」

 切羽詰った必死な険しい顔をして、それでも思わず見惚れるほどきれいで、でも聞こえてないのか聞く耳持たないのか、手を離してもらえない。もうどうしようもなくてぎゅっと目を閉じる。
 肌が外気にさらされ思わずふるえがはしった。薄く開けた目の端に、目を背けたハイプリーストのきれいな横顔が写った。
 だから言ったのに……。申し訳ないやら恥ずかしいやら惨めやら、もうごちゃごちゃで小さく笑ってしまう。
 こんなきれいなひと相手に、この汚さはさすがにヤバイだろう。それでもまだ首やら胸やら噛みついてくるから、どうにでもしてくれと諦めの境地。せめてこのひとがさわってくるところ以外は不用意にふれてしまわぬよう気をつける。
 内臓が腐り始めてるから吐息は腐敗の色が混じる。口をぎゅっと結び、息がかからないように顔を背けた。

「……っ、どうし、て……ッ!」

 いやそれは俺の方がききたいし……。

「あれから、何年経ってると思うんだ?!」
「え、」
「おまえは馬鹿かッ!!」
「え、えと……」

 馬鹿か馬鹿だ馬鹿じゃないかと繰り返し罵られ、それなのにその声音はとても苦しそうに。喉の奥から擦り切るようにしぼりだしたかすれたもので。頬にぽとりと水滴が落ちてくる。思わずハイプリーストを見上げると、痛そうにつらそうに細められたきれいな目の縁から、涙の粒がまたひとつ零れ落ち滑らかな頬を伝っていた。

「どうして……、僕なんかを待っていたんだ……」

 このきれいなひとが、ノービス……?
 思わずまじまじと凝視する。小さなノービスの面影を探してみたが、よく分からなかった。俺の手を掴む大きく力の強い手は大人の手であり、あの時のやわらかさはもうない。でもお日様のようにまぶしい金色の髪と青い空のような瞳は、確かにノービスだった。

 ずっと待っていた。ノービスの無事な姿を見たかった。ノービスがモロクに無事にたどりついて、ごめんって謝って、怪我をしてないか訊ねて大丈夫なことを確認して、そしてノービスが次にどこに行くのかわからないけれども、安全なところまで送り届けたかった。なにより、初めての約束を守りたかった。
 あまりに会えないから、もしかしたらノービスに何かあったんじゃないかと心配で、俺のことなんて忘れてしまったんじゃないかと不安で心細くて。
 でもやっと会えた。元気そうだし怪我もなさそうだし転生してオーラも吹いてるし、しかも俺のことも覚えていてくれた。もう俺の手を必要としないぐらいに、俺なんかが触れられないほどきれいになってるのも嬉しくて誇らしかった。やっぱりすごい宝物だったのだ。俺だけの宝物と勘違いしてたのがちょっと恥ずかしかったけれど。でも本当、本当に……、

「無事でよかった」


 シーフがやわらかく微笑むのを、ハイプリーストは信じられない面持ちで見ていた。何故笑えるのか分からなかった。
 罵ってもいいはずだ。馬鹿みたいにずっと待たされて恨み言の一つや二つ、百や万ぐらい吐いてもいいはずだ。いやそもそもどこの世界にこれだけ待てる人間がいるというのだろう。5分も待てない女がいるというのに、こいつは何十年も待ち続け挙句の果て無事でよかったと笑っている。
 正気の沙汰じゃない。肌がぞわりと泡立つ。気味が悪くて知らず知らず身体を離すと、ふるえる足で数歩後ずさった。凍りついた視界の中で、拘束を解かれシーフも身体をわずかに起こしかける。半端に脱がされた上衣がその動きに合わせ、白い肌に醜く浮き上がる黒く変色した箇所を覆い隠すように滑り落ちた。
 ふと人の気配を感じびくりと弾かれたように振り返ると、先ほどの大柄なロードナイトがこちらに近づいてくるところだった。

「おまえの用事は終わったんだろ、おつかれさん」

 すれ違いざま、ロードナイトはハイプリーストの耳元に険のある声音で低くささやく。呆然と横目で追うその横顔にちらりと、怒りにぎらつく目がハイプリーストを見下し、蔑むように口元を歪ませた笑みが浮かぶ。それは見間違いかと思うほど一瞬で影を潜めた。

「あ、……ロイ」
「なんて格好してるんだ、ストリップなら俺の前でやれよ」
「ッ!」

 面白そうにからかう声と慌てふためき上擦る声が背中に届く。それはいかにも気心の知れた気軽さと親密さを漂わせていて、ハイプリーストは目線を落としわずかに振り返ると、ロードナイトが傍らに膝をついて、赤面し焦ってうまく着れないシーフを手伝っていた。
 ロードナイトに腕を引かれシーフがハイプリーストの横をすり抜けていく。ぐいぐい引っ張られながらも何か言いたそうにシーフは振り返るが、結局言葉は届かなかった。


 ハイプリーストはぼんやりとシーフがいた痕跡を、押し倒され争った際に乱れた砂の波を見下ろしていた。ハイプリーストのこぶしを強くたたきつけた痕はロードナイトによって踏み滲まれ、シーフを連れ去っていった二人分の足跡へと変わっていた。
 かたく強張っていたこぶしをゆっくりと広げると、知らず知らず強く握りしめていたのか、爪がてのひらを食い裂き血が滲んでいた。目を伏せ再び力なく握りこむと、手の甲にはりついていた砂がパラパラと零れ落ちた。

「アレッシオ」

 名を呼ばれのろのろと視線をあげる。師とギルドマスターであるロードナイトが立っていた。
 次から次へと登場する面々にふと疑問を感じ、それから己の間抜けっぷりに思わず乾いた笑いが漏れた。ご丁寧に人目のない物陰に連れ込んだのに、ギルド情報でシーフの居所などギルドメンバー全員に筒抜けだったのだ。

「突然飛び出すから驚きましたよ」
「……申し訳ありません」
「あのシーフとは知り合いだったのですね」

「友達、か?」

 師に昼間の非礼を詫び、最後の言葉は曖昧に聞き流した。軽く下げた頭に、ギルドマスターの唐突な問いが続く。ハイプリーストは訝しげに視線を上げ、声の主を見た。

「え、」
「ハチは、君の友達か?」
「…………いえ、違います」
「そうか」

「もうすぐハチの寿命は尽きる。会ってくれてありがとう、私からも礼を云う」
「それは、どういう……」
「壊死が進んでいるんだ。君も見ただろう」
「……はい」
「意識してやったわけではないんだろうが、強い意志の力で時を止めていたんだ。身体に過負荷をかけ命を削ってまで、成長することを拒んだんだよ」

 それは僕のために。ただ僕を待つためだけに。ハイプリーストは唇をかみ締める。僕を信じ約束を守り続けたシーフの命はもう残りわずかで、彼を信じず裏切った僕はこうして今もこれからものうのうと生き恥晒している。

「転生すれば……」
「転生システムは時を巻き戻す。身体に大きな負担をかける。もたないだろうな」
「それでも、」
「もう無理なんだ」

 きつい口調で遮られる。思わず語気を強めたことに気づきばつが悪そうに照れ笑いするギルドマスターの、きっと本人も気づいていないだろうが、ハイプリーストを見下ろすその目に軽蔑の色がちらついていた。

「そっとしておいてやってくれ。最後に君に会えてハチも安心しただろう」

 君には気分の悪い思いをさせてしまって悪かったなとギルドマスターは謝る。ハチが勝手に待っていただけだから、君は何も気にしなくていい。その言葉の一つ一つが刃のように突き刺さる。言葉を失い項垂れるハイプリーストに、師の凛とした声が降り注ぐ。

「それでも、私ならどれだけ可能性が低くても諦めません。例え絶対に無理でも奇跡を信じます」
「……」
「貴方はどうしますか?」

 何もせず手をこまねいていますか。穏やかな口調で、しかし目を背けることを許さぬ真っ直ぐな声音で問うてくる。
 ハイプリーストは目を閉じる。僕を信じひたむきに約束を守ったシーフの微笑みが怖くて思わず逃げようとした。先ほど感じた気味悪さがよみがえり睫毛が細かくふるえた。気を落ち着かせるように小さく呼吸を整える。
 あの頃と変わらないシーフの控えめな戸惑った表情が脳裏をよぎった。僕が身勝手に作り出した夢の彼ではなく、本当の彼の気弱な微笑みを。混じりのない美しい目を。初めて触れたシーフの少し高い体温がてのひらに灯る。掴んだ細い手の感触を、デザートウルフから僕を守ってくれたあの手を。
 力強くやわらかく己の手を握りこんだ。

 目をゆっくりと開く。透き通るような蒼い瞳に光が宿る。
 ハイプリーストは駆け出した。シーフの元へと。




 
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