錆色に沈むスラムの路地裏。壁に背をあずけ蹲る人影。膝を抱え、足元に視線を落としたまま。瞬きを繰り返す薄暗い街灯は時折、その半身を闇より浮かび上がらせては、また闇に戻した。蹲るソレの前を、素知らぬ顔で通り過ぎる、ひと、ひと、ひと。誰も見ないほんの一瞥も、誰もふり向かないほんの一瞬も、誰も気に留めない誰一人としてソレを心に留める者など誰ひとり。ソレはただ足元に溜まる小さなみずたまりを眺め続ける。濁った水面に映る、ひと、ひと、ひと。飽くことなく厭くことなくぼんやり眺め続ける。世界は時間は、ひとは想いは言葉は。常に変化し続け変わり続け、失い続け手に入れ続け、そして決して元には戻らない。ソレはただ、世界が時間がひとが落としていったモノを眺めていた。一刻一刻変わりゆく世界を、ソレはただ眺めているだけだった。

「……?」

 ポツリと落ちた水滴が水溜まりに波紋を描く。揺れる視界。その一瞬に思わず目が引かれる。あわてて顔を上げ。逆さまに網膜に映る世界に視線を遣る彷徨わせる、眼を凝らす。探す捜す。北へ南へ通り過ぎる人波の、その向こう。壁にもたれて人待ち顔。北の、その先の先を一心に眺め続ける、黒髪の青年。その横顔から、目が離せない。「違う」からなのか「同じ」だからか、何故か惹かれる。
 ソレは、無性に黒髪の青年に声を掛けたくなった。 ……だけれども、出来なかった。誰にも話しかけられたことのなかったソレは、言葉を話し方を知らなかったのだから。声を掛ける方法が話す方法が、どこをさがしてもみあたらなくて……。ソレは、黒髪の青年から視線を逸らした。諦めた。



* * *


 スラムに「雨」が降る。定期的に、決まった時間に降る「雨」。その5分前。誰もが急ぎ足で家路へ屋根のある場所へ。オ客を待つ少年達は「雨」をしのげる宿を、ついでに一石二鳥オカネも儲けようと、道行くひとに愛想をふりまき。それを横目に、見知らぬ男に肩を抱かれ通り過ぎる虚ろな笑みの少女達。
 彼は、黒髪の青年はさきほどオ客と一悶着を起こし。一方的に殴られ蹴られ。無抵抗のまま、薄ら笑いを浮かべたままアスファルトに寝転がる。面倒臭そうにどうでもよさそうに、空に向かって間延びした悪態を吐き出した後、ピクリとも動かなくなった。通りを歩くひとの数は少しずつ少しずつ少なくなって、やがて、誰もいなくなった。ソレと彼だけを残して、誰もいなくなった。水たまりに映る世界にソレと彼のふたりが映った。ふたりしかいなかった。ふたりだけだった。ふたり、だった。

 「雨」が、降り出した。

 激しく水面を叩きつける「雨」が、世界を揺らした。ソレは目を閉じた。膝を抱く腕に力を込め、両膝の間に顔を埋めた。
 「雨」に濡れそぼつその肩に初めての、感触、熱。誰かの手が置かれた。躯を強ばらせ弾かれたように顔を上げると、ソレの目の前に彼がいた。すぐ目の前に、彼がいた。彼は早口で何か捲したて、何の反応も寄こさないソレに焦れた様子で苛立った様子で、その手を掴み引いた。ソレは引きずられるままに立ち上がり、そして走った。長い間使われなかった足が縺れ、バランスを崩し転びそうになるのもお構いなし、前を走る彼はぐいぐいとその手を引っ張った、連れ出した急き立てた前へ先へと。そして。

 使われていない廃屋で。
 ソレと彼は「雨」宿り、をした。



「……ヒドイ、雨」

 空を仰ぎ見る、その横顔に視線を遣る。
 少し掠れた彼の声音が耳に心地よかった。

「あんた、名前は?」
「…………」
「なにもったいぶってんのさ。 ……あ、じゃ俺が当ててみようか?」
「えーとね、アルバート?クリス?フィル?スティーブ?ロジャー?マイケル?チャールズ?コロンボ?ピエール? 意表をついてマタサブロウとか? ……違うの? それじゃ、……」

「それじゃ、…………、」

 視線を彷徨わせそして目を伏せた。前髪に遮られたその間、自嘲的な笑みはややもしてポキリと崩れ落ち。ギリリと唇をかみしめる。戸惑うソレには、かける言葉などあるはずもなく。ためらいがちに手を伸ばし、その血の滲む唇のはしに指を、そっと。
「……さんきゅ」
 言葉を紡ぐたびに動く唇。
 その動きをなぞると、言葉が躯に直接響くような。そんな気がした。
「もう、そろそろかな」
 「雨」の勢いが徐々に弱まりそして、ゆっくりゆっくりと止んだ。
「じゃな。……あ。俺、ザックス。今度逢ったときにでもアンタの名前、教えてよね」
 ばいばい。かるく右手をふって、走り去るその後ろ姿。眺める。いつまでもいつまでも、ソレは眺め続ける。



 ソレは蹲るのをやめた、壁にもたれかかり立ち続けた。ソレは視線をあげた、足元のみずたまりはいつの間にかなくなっていたが、ソレは気付かなかった。ソレはあらゆる音に耳をそばだてた。ソレは言葉を知りたかったから。溢れ流れる音ひとつひとつを拾い続け記憶し続けた。膨大な音の渦に圧倒され、眩暈をおぼえる。それでも必死に耳を傾けた。ソレは立ち続けた。長い長い間。道行くひとが時折、足を止めてはソレを抱いた。その場で無理矢理足を開かせ、言葉無く犯した。あわてて目を逸らす者。立ち止まる者。全く見向きもしない者。様々なひとがソレの前を通り過ぎていったが、言葉をくれるものは誰もいなかった。……誰、ひとりとして。


* * *


「ひさしぶり」
 変わらない笑顔。ひとなつっこい笑顔が“俺”のすぐ前に。
「…………」
「もしかして、忘れた?」
 首を横に振る“俺”に、彼は、良かったと、笑みを洩らす。

「ザックス!!」
 彼の視線がギクリと揺れる。その先にそってふり返ると、走り寄ってくる小柄な金髪の少年。とてもとても綺麗な顔立ちは、怒ったような呆れたようなそれでいて嬉しそうな、そんな表情で。じりじりと後ずさる“ザックス”につかみかからんばかりに迫りせまり追い詰め。早口で捲したてる。少年を宥めようと“ザックス”のしどろもどろの言葉は、火に油を注ぎまくる結果となり。全く終わりが見えない。
 少年はふと、呆然と立ちつくす“俺”に気付き。怪訝な表情を向ける。
「……知り合い?」
「そ。ともだち」

『…………ボクハ、“トモダチ”ナンテ、……』
『ネェ、……ル、キミハボクノ…………』

 真っ白なヒカリが突き刺さる。激しい頭痛は一瞬で。思わずこめかみを押さえた右の手は、かすかに震えて。

「ふーん、そんなことより、隊長、すごい怒ってたよ。捜したんだからね」
「悪ィ」
「ほら、行くよ」
 有無を云わせず強引に手を掴み、ぎゅっぎゅと手を引く。
「ご、ごめん。……またな」
 少年にズルズル引きずられながらこちらを振り向き“ザックス”は謝る。……あ、次逢ったら名前教えてくれよ! ぶんぶんと手をふりながら。

『キミノ、……ナマエハ、…………』
 ずきんずきん。頭が壊れそうに痛い。


『キミノ、……ナマエハ、…………』


 ぞくりと悪寒がはしり。両のてのひろはガタガタと、ふるえが止まらない。カラカラに乾いた眼球、恐る恐る前方へと視線をめぐらす。その視線の先、銀色のヒカリ。網膜に強烈に焼きつくヒカリの残像。ゆっくりゆっくりと目を閉じ、そしてゆっくりゆっくりと目を開いた。黒衣の長身の男。美しい男。英雄と呼ばれる男が、すぐそばに。

「…………ハル、」

 名前を。名前を呼ぶ。俺の名前を。
「なるほど、そういうことか。 ……ハル、おまえが生きていたとはな」
 名前を。名前を呼ぶ。俺を、俺の。俺の名前を。「ハル」と。
「あ、あアア。……………ああああああァァァァァァァァ!!!」

『キミハ、ボクノモノダヨ。……“ハル”』

 酷い非道い頭痛。GUSTproject-Zero013【HAL】ゼロ013HALHALHALHAハLはるはるはルはるはるハるはるはルはるはるはるはルハルハルハルハルハルハルハルハル……。ナマエ。なまえ。名前。あなたがつけた名前、あなたが与えた名前。俺の名前。あなたが、俺に与えた名前。

「……セ、フィ、……ロス」

 セフィロス。俺を拾った者、俺を目覚めさせた者、俺に名前を与えた者、俺に命を与えた者、俺に何もかも与えた者、俺から何もかも奪っていった者、俺を憎む者、俺が憎む者、俺を愛した者、俺が愛した者。俺が、愛した者俺が愛した者俺が愛した者。俺が、アイした……、

「…………殺したい、と思うほどに」
 俺は、あなたを愛していた。



「待っていた。あなただけを、あなたが来るのを待っていた。……ずっとずっと」


「過ぎ去りしあなたへの言葉、の補足」 2002.02.22
 
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