黒猫は、男の鼓動に一心に耳を傾け。その苦しげな呼吸を絡め取るように、やわらかなくちづけを繰り返す。男の姿を捉える暗い漆黒の右の瞳に睫毛の影が落ち、憐憫な翳りが宿り、こらえきれずに目を閉じる。上下する汗ばむその胸に、黒髪が流れ落ち、艶めかしい流線を描き絡みつく。黒猫は男の輪郭をなぞるように細い指を這わせ、その髪を梳かす。美しい銀の輝きを放つ、その髪の先まで、何度も何度も。蒼白い、細かくふるえる瞼を、ついばむようにくちづけ。眼球の曲線を唇でなぞり、かすかに涙の滲む目縁にキスを。あまいあまい吐息とともにこぼれ落ちるのは、愛しい愛しい男の名。ぬれた声でくりかえし繰り返す。細かく痙攣する睫毛の下の、淡い光をはなつ蒼い瞳が、少しずつその像を結び、黒猫の姿をかたどり。口元に刻まれる笑みは、あまりにもしあわせそうで。あまりにも痛々しく。男は、まだふるえの止まらない腕を持ち上げ、長い黒髪に指を絡ませると、己の方に引き寄せる。あかいくちびるに触れ、その輪郭をなぞり、歯列をひとつひとつたどり、舌を絡ませる。呼吸すらも赦さない深い深いくちづけに、黒猫はくるしそうに、きもちよさそうに。のどをならす。与えるだけのキスを、奪うだけのキスを、分かち合うキスを、やさしいキスを。やさしくやさしく。くりかえし幾度も何度も。暗い漆黒の瞳は、依然閉ざされたまま。淡い蒼い瞳だけが、うっすらと、愛おしそうに。その耳朶を甘噛みし、耳のつけ根から顎のラインをなぞり、喉元へ。黒猫の、汗ばむ白い細い喉が仰け反り、黒髪が白いシーツの上にみだらに乱れ散り。上体を支える両の腕がふるえ、堪えきれずにくずれおちる。男はしなやかな細い躯を抱きしめ、組みしき。鎖骨から胸へ脇腹へと、あますところなく指を舌を這わせ、はんなりと色づく膚に、痕をしるす。快感を探りあてては、執拗にせめ、おいつめる。黒猫はあまくあまく、あまやかに語尾を掠らせ、何度も男の名を。くりかえしくりかえし。縋りつくように。
 躯の中にねじこまれた指の感触に、躯をよじる。もっと奥へ奥へと、誘いこむように。絡みつく。媚びるように、うっすらと汗ばむ膚を隙間なく密着させ。熱にうかされるように、力なく肩口に顔を埋める。細いなめらかな腰を抱え、捻りこむ。悲痛ななきごえは声にならず、ただ熱い吐息だけがすぐ間近に。その熱に躯を侵蝕されその激痛に呑み込まれ、無意識に逃れようとする、その細い躯をしっかりと抱き寄せ、容赦なく深々と穿った。きつくきつく閉ざされた目から、涙がこぼれ落ちる。首にしがみつき己の腕に爪を立て、きつく握りしめられた左の、ひとさしゆびの第二関節噛みしめ。背骨を軋ませ、背中をひきつらせ。宙を仰ぐ。祈るように、天を仰ぐ。うっすらと開いた暗い漆黒の右の瞳は、光を宿すことなく。左の目に巻かれていた白い包帯はゆるやかにほどけ、眼球のない窪んだ眼窩からは。涙の、緋色の跡が、幾筋も幾筋も。

 男の、躯は。その内側から、少しずつ少しずつ。腐敗しはじめていた。ゆびの先から、少しずつ少しずつ。壊死しはじめていた。細胞は、少しずつ少しずつ。崩れ落ち、その機能を停止させようとしていた。血液は濁り、汚れ、それでも躯中を巡り。躯中に撒き散らしていた。腐敗は感覚器官を麻痺させ、いたみはもうすでに感じられなくなっていた。男はただやすらかな表情をしていた。意識を手放した黒猫の、深い眠りにおちるその姿、愛おしそうに、少しつらそうにみおろしながら。ゆめは。泣きたくなるほどのやさしいゆめは、もうすぐ終わろうとしていることを。男は、知った。終わりが約束されているからこそ、ゆめは、こんなにもやさしいのだと、どこまでもやさしいのだと。汗の浮かぶ額にはりついた黒髪を、そっとかきあげてやりながら。男は、思った。男は、祈った。蒼白い瞼の上にてのひらをのせ。黒猫の、目を。閉ざすように。男は、ささやく。目を閉じていろ、と。お前は何も見なくて良いから。お前は何も見なくて良いのだから、だから。今は、目を閉じていろ、と。



「目を閉じてねぇおねがいだから。目を、閉じて。」 2001.10.09
 
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