「雨」は降り続く一昨日も昨日も明日も明後日もずっと先も「雨」は降り続く。決して降り止むことは無い、このスラムにいる限りは決して。「雨」は降り続く。空から、支柱が支える「空」からフッテクル。

 男は濡れた瓦礫の上を歩く。スラムには不似合いの革靴で水を跳ねながら右手に持つ年代物の洒落た蝙蝠傘で「雨」をはねのけながら男は水浸しのスラムを歩く。男は誰よりも昔からスラムに居住を構えていたが誰よりも決してスラムの住人ではなかった。男はふと有刺鉄線に囲まれた巨大な機械塔に目を遣った。高い高い天まで届く機械塔、その先をこの濁ったスラムからは伺い知ることは出来ない。男は見上げる支柱が支えるプレートそしてプレートの上に存在する空中都市へと何の感慨もなく。やがて頸の疲れを感じ目線を降ろし男はまた再び歩き出す。「雨」の中を。

 空中都市からの有難くもない落とし物。毎日捨てられる大量のダストはスラムに堆く積まれていく。垂れ流される汚水はスラムに止めどもなく降り注ぐ。「雨」となって毎日毎日。汚染された空気に立ちこめる臭気に煙る視界。その視界の端に太った鼠が蹲っている。鴉は鋭い嘴で芥を辺りに撒き散らす。警戒心の持たない鈍足の鼠に飛ばなくなった鴉。明らかに間違った進化へと踏み込んでしまった彼ら、いや人間もそうだったなと男は小さく小さく笑った。もう後戻りは決して出来ないのだとこのまま進むしかないのだと男は自嘲的に嘯いた。

 出生率の激減が問題視されるようになったのはここ数年の事。数少ない乳幼児の半数が奇形児であり数年と待たずに死んでいく殺されていく。遙か昔から渡され続けてきた「命のバトン」はもはや近い将来途絶えようとしていた。コスモキャニオンとかいう自然主義者の村の長老が魔晄エネルギーの基であるライフストリームの枯渇が原因であると人は星から生まれ死ぬと星へ帰るのだと星と共に生きなければならないのだとそんなことを言っていたそうだがその有難い説教はやはり手遅れのようだ。人類は滅亡の道を辿っている着実に着実に。それが「星の意志」であろうと人間が自ら選んだ道であろうとその事実は決して変わらない。

 男は薄汚い瓦礫の合間を歩く。男の住む零番街スラムは他のスラムよりも最も汚染が激しく殆ど無人と化した芥溜めだった。番号すら与えられていないこのスラムは人の住める所ではなかったが男にとってはこの上ない落ち着ける場所だった。男の足取りが少し軽やかになる。溝から流れ出るヘドロのような濁った液体に足を取られ男は咄嗟にバランスをとる実に慣れた様子で。男は変わらない足取りで歩き続ける。

 そして男はふとその足を止めた。男の数歩先の白い泡が浮かぶ薄汚れた水溜まりの中に小さな黒い毛玉が蹲っていた。男は興味が引かれてそちらに足を向けるそれに近づく。蝙蝠傘を肩に掛けて両手でそれを慎重に掬い上げた。それは水に濡れそぼった小さな黒猫だった。心地よい体温が男の手を通して伝わってくる。微かに四肢を震わせぐったりと躯を預けてくる。男が腕に抱き寄せるとその腕の中で黒猫は小さく小さく啼いた。男は眼を細めてその小さな生き物を眺めていたがやがてその躯をしっかり抱き上げて立ち上がると再び歩き出した。家路へと。



「黒猫」 2001.05.07
 
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