いつの頃かハルという男はふとした合間に記憶を失うようになった。明確なきっかけがある時もあれば全く予期せず時に記憶がふつりと途絶える。ほんの数分の間もあれば何日何週間、ストンと記憶が抜けるようになった。その記憶にない時間、己が一体何処で何をしているのか全く全く分からなかった。ただ、ただいかなる時でも男が意識を取り戻した瞬間真っ先に視界に映るものは、赤だった。己の両手が己の躰が周囲一帯が全て総て真っ赤に染まっているのだ。大量の、血液で。赤く赤く。もはや原形を留めていない肉塊の傍らで、男はただ呆然と立ち竦むしかないのだ。背筋を這い上がる生理的な嫌悪感に任せて嘔吐するものの己の口から溢れ落ちるものはどれもこれも赤ばかり。明らかに人間を形作るには少な過ぎるパーツが男の空白の時間の行動を無言で物語っているようで。 いつの頃かハルという男は諦念に似た空虚に支配されるようになった。己の行動に視界に映るものにいつしか何も感じられなくなっていた。いつの頃かハルという男は本心から笑うことが出来なくなっていた。いつの頃かハルという男は涙を流せなくなっていた。それは男がハルという人格を保ち続けるための最善のそして精一杯の選択であった。 * * *
男は真新しい白いシーツの上に横たわる黒猫をひたすら見下ろしていた。白い白いシーツよりもさらに蒼白な表情で眠る黒猫。顔の左半分には赤黒く変色した包帯が幾重にも巻かれおり、男はいたたまれない様子で眉を顰めた。「雨」音に混じって、乱れた呼吸が微かに聞こえる。黒猫は生きていた。黒猫は死んでいなかった。男は複雑な表情で黒猫の意識が戻るのを待った。このまま意識が戻らないことを願いながら男は黒猫の意識が戻るのを待った。男は不安と恐怖で躯中が支配されていた。男は恐かった。黒猫の目がその片目となってしまったその漆黒の右の瞳が男の姿を映したとき、憎悪に恐怖に蔑みに歪む様を見るのが恐かった。一層このままと黒猫の細い頸に幾度も幾度も男の両手が巻きついては躊躇い離れた。結局男には出来なかった。黒猫の瞼が細かく痙攣し、そしてゆっくりとゆっくりと意識を取り戻す。男は呼吸を止めその様を見つめた。黒猫はぼんやりと天井を眺めた後、視線を下ろしそして男の姿を捉えた。男は躯を酷く萎縮させ堪えきれずに俯いた。黒猫の右手が持ち上がり顔の左半分に巻かれた包帯を、眼球のない僅かに窪んだ眼孔を探ったのが気配で伝わってくる。安易に予測される結果を、恐怖と怯えにひきつらせた黒猫の視線を悲鳴を、男はただ待った。 「………ハル」 ガサガサに掠れきってしまった声音でしかしながら昨日と全く変わらない人なつっこい声で名を呼ばれ、男は思わず顔を上げ愕然と黒猫を見つめた。 「おはよ」 笑みを形作ろうとして痛みが走ったのか黒猫は顔を顰める。それでも微かに表情を歪ませながらも黒猫は確かに男に対して笑顔を向けた。 「昨日の夜。アンタ、凄かったよねェ」 呆然とただ呆けたように直視してくる男に黒猫は屈託の無い眼差しで見上げる。 ネェ。……オレノ、メダマ。ウマカッタ? からかいを含んだ口調で尋ねてくる上目遣いの黒猫に対して、男は思わず己の耳を疑い言葉を返せなかった。 「左目、喰ったでショ?」 聞いてる? 黒猫は無邪気に何の反応も寄越さない男を覗き込む。男の口から微かに漏れるのは震える声、謝罪の言葉。 「………すまない」 「なんで謝ンの?」 本気で分かっていないのか首を頻りに傾げる黒猫。 「すまない。謝って済む問題じゃ無いと思うが、……すまない」 「だからなんで謝るのサ?」 「お前の、左目を、………」 「ベツに。そんなことどうでもイイよ。それよかさ、美味かった?」 黒猫の対応に言葉に質問に男は戸惑いを感じる。 「……い、いや。………憶えてないんだ」 「憶えてないの? ホントに? 目ン玉喰ったことも?」 「……あぁ」 「セックスも?」 男は思わず言葉を失う。 「…………………あぁ」 黒猫は男から天井へと視線を逸らし大きく溜息を吐く。 「……すまない」 はっきりと落胆の色を見せる黒猫に男は戸惑う。何度目かの謝罪を口にしながら、もう男は何に対して謝って良いものか分からなくなっていた。黒猫は左目を失ったことより昨夜の惨劇を憶えていないことに対して男を責めているかのように見える。黒猫の不可解な価値基準に男はただただ唖然とした。 「アンタ勿体ねーなァ」 「は?」 「勿体ない、って云ってンの」 「アンタがさ、俺の目ン玉喰ってるところ。ナンテ云うか、えとスゴクって目ェ離せなくて、すげぇ、キレイだったんだゼ」 身振り手振りを交えながらその様子を再現してくれる黒猫に男は言葉を失った。自分の眼球を刳り抜かれ挙げ句の果てに其れを喰うという常軌を逸した行動を狂気の沙汰をただただ綺麗だったの一言で片付けてしまう黒猫の神経が男には到底信じられなかった。 「セックスもスゲェかったし。 アンタって、いっつもアンナコト、してんの?」 アンタって顔に似合わずナニな人なのネェ? 意地の悪い笑みと艶めかしい上目遣い。聞いてるこっちの方が赤面する程のオモイデバナシを黒猫は臆することなく話し続ける。男のことなどてんでお構いなし。その口の良く回ることと云ったら、つい先程までベッドの上で丸一日意識不明だったとは思えないほど。って云うか俄然喧しすぎる。 「聞いてる?」 うんともすんとも返事も相槌も寄越さない男にようやく気付いたのか、黒猫は話を中断し不満気な眼差しを向ける。男はその身勝手さに思わず苦笑を漏らした。言葉は何故か出なかった。黒猫の、初めて見せる黒猫の真剣な眼差しが、黒猫の右手がそっと己の方に伸ばされる様が、男は不思議で可笑しかった。可笑しかった。黒猫の神妙な態度が可笑しかった。何故か自分がとんでもなく可笑しくて可笑しくてしょうがなかった。黒猫の右手が男の頬にそっと触れる。温かかった。黒猫の手からなめらかな腕に水滴がつたって床にポトリと落ちた。男は不思議そうな面持ちで床を見下ろすと幾つもの水滴が無機質なコンクリの上に跡を残しているのが見えた。己の両手を掲げると水滴が手の中で小さく小さくはねた。己の目から水が止めどもなく溢れ頬を流れていた。 男は自虐的な笑みを刻みながら泣いていた。声もなく己でさえ気付くこともなく泣いていた。男は己の愚かさに浅ましさに嗤い続けた。狂ったように嗤い続けた。黒猫の温かいその手を縋るように必死に縋るようにきつく握りしめながら男は嗤い続けた。 「ごめん」 黒猫は繰り返す。ごめん。ごめんなさい。 男は何故黒猫が謝るのか分からなかった。謝らなければいけないのは自分の方ではないか。 「アンタ、苦しかったんだよね」 ずっとずっと苦しかったんだよね。悲しかったんだよね痛かったんだよね淋しかったんだよね。 「ごめん。アンタのこと、いっぱい傷つけた」 黒猫が何を云わんとしているのか男には分からなかった。分からなかったけれど、男の躯は咄嗟に黒猫を引き寄せ抱きしめていた。強く強く黒猫のしなやかな躯を強く強く。黒猫の温かな体温が男に伝わってくる。黒猫の確かに脈打つ鼓動が男の胸腔に力強く響いてくる。男は無我夢中で黒猫を抱きしめた。 そして男は黒猫に縋りながら、ぽつりぽつりと己のことを己の過去を話し始めた。 長い長い独白。 それは、懺悔に似て。 「眼球」 2001.06.23 Illusted by Ms, Kaoru Niemi. Thank you a lot. |