あのひとはとてもきれいでとてもアタマがよくてとてもやさしくて。すごい好き。あのひとのそばにいられるだけでこんなにもしあわせ。なのに白い服のきれいな女のひともあのひとのともだちだって言ってたつよそうなひともみんな、あのひとですらおれのことかわいそうって言うんだ。なんで、だろ? おれしあわせだよ? しあわせだよ、ね? すごいすごいしあわせ。 ……ねぇなんで、そんな目でそんな悲しそうな目でおれのこと見るの?



「……な、んで?」

 少しつま先立ち、腕を伸ばし見よう見まねで憶えたばかりのまだ慣れない手つきで開閉パネル操作し、横にスライドした扉をすり抜け部屋を出ていこうとしたその矢先、何処へ行くと声をかけられその腕を掴まれびっくりした表情で。少年は男をきょとんと見上げる。「なんで、アンタがここにいるの?」 さも不思議そうな顔で、すこし不審な翳りを湛えた暗い漆黒の瞳に射抜かれ、男は無意識にわずかばかり視線を逸らす。

「部屋から出るなと言われているだろう」
「おれもうダイジョーブ、だよ?」

 腕を掴んでいるその手に視線をおろしその指をひとつひとつはがそうと躍起になっている少年の、黒髪こころなしか安堵した表情で見下ろし。男は部屋に戻れと声をかける。その言葉聞こえないふりして、腕をよじってその手をなんとかふりはらい横をすり抜けようとした幼く細い躯を。にべもなく背後から捉え引き戻す。

「なにすんだよ」
「聞こえなかったか。部屋に戻れと云ってるんだ」
「もうなんともないよ。ほんと大丈夫だからほっといて」
「大丈夫かそうでないかはラボが決めること。先日の検査でも言われただろう」
 なおも言い募ろうとする少年にだからこどもはきらいなのだとうんざりした表情で、しかしながら律儀にも少年の言葉ひとつひとつに反論の余地もはさませない全くの正論をかえし。言い諭す。

「なんで、そんな偉そうにすんの。ずっと来てくれなかったくせに!」
 少年が声を荒げ、その言葉に男は息を詰める。

「ずっとずっと待ってたのに。ずっと。アンタのこと……」

 掴んでいた腕を逆に掴まれその暗い漆黒の目が険しくすぐ真下に。男の腕が思わずひるむ。その様に少年の目は苦しそうな傷ついた翳りを見せそして堪えきれずに伏せられた。男から手を躯を離しその横をすり抜け。少年の躯を捉えるために伸ばされた男の腕はわずかにためらった後、その指は空をきり、その手は届かず、その腕は結局行き場のないままおろされた。うなだれるように。力無く。



 あのひとはとてもアタマが良くてとてもかしこくていつもねエライひととむづかしいハナシばかりしてるんだ。たまにおれにも話してくれるんだけれどちんぷんかんぷん。でもねあのひとの声とてもきもちよくてずっとずっと聞いていたくなるからだからもう一回言ってよってなんどもなんどもせがむんだ。



 男は、扉が開きっぱなしの少年の部屋をしばらく眺めそして足を向けた。少年のために急きょ誂えられた四角い小さな空間はあまりに簡素でよそよそしく、どうしようもないほど寒々しい。灰色のコンクリートの無機質な壁に、ただひとつの窓は小さく少年の手が届かない高さで、ご丁寧にも鉄の格子が嵌め込まれており、陽の光は格子模様に切り取られコンクリートの冷たい床に落ち、瞬く間に消え去り残像だけが縫いつけられる。生活感がほとんど感じられず、ただ小さな寝台の上の白いシーツだけがかろうじてなめらかな流線を描き、くしゃくしゃにまるめられた白いブランケットと黒い古びたうさぎのぬいぐるみが無造作に。転がっている。黒いうさぎの蒼いあおいガラス玉の目が陽の光に乱反射しきらきらと。まるでこの部屋に存在する唯一の色の如く、輝いていた。

 男は、部屋の様子に知らず知らず顔を顰めそして寝台に腰を下ろした。所在なげにシーツの上を彷徨うその指が、黒い古びたうさぎのぬいぐるみに触れる。少しほつれた長い片方の耳を掴み己の眼前に引き寄せ。眺める。誰かが少年に与えたものなのだろうと考えふと脳裏に思い浮かぶのは研究員の女の姿。わたしぬいぐるみ好きなのよ意外でしょ?と以前に女の部屋を訪れたときあちらこちらに飾られているぬいぐるみを見遣り、かすかに照れた口調ではにかむように微笑んだ女の姿をぼんやりと。タオル地のやわらかな感触が手に馴染めず、男はそれを脇によけ小さく溜息。足を組み直す。少年を探しに行こうかと思案してみたが、結局足は動かなかった。男は分からなかった。男は少年に対してどう接すればよいのか分からずにいた。「お前が拾ってきたんだ。だからお前が責任持って最後まで面倒をみるのは当たり前のこと。そうだろう?」 ラボからの呼び出しにしぶしぶ足を向けたものの宝条の第一声はそんなふざけた内容で。己のことですら手に余るというのにそのうえ少年の面倒をみるなんてとうてい。手に負えるわけがない、始末に負えるわけがない。眉を顰め深く深く溜息。男は、未だに。少年の存在にその暗い漆黒の瞳に、恐怖に似た戸惑いをぬぐいきれずにいた。あのときの、少年の目の前で両親を殺したあのときの、その暗い漆黒の瞳を男は依然直視できずにいた。

 暗い漆黒の瞳は深い果てしなく深い闇の色。その目が始終責めるように己だけに向けられる。

「ちゃんと見てよ。おれだけを見てよ」

 なんどもなんども繰り返し繰り返し。壊れたレコードが同じ旋律を繰り返しなぞり謳うように。

 お前こそ、何を見ている? ……その目に、私はうつっているのか。

 ポケコンが執拗に着信音を鳴らし続け。男は電源を切る。



 あのひとはとてもやさしいひとなんだよ。おれを拾ってくれたのもあのひとなんだ。おれね家を出てきたから、お金なくて行くところなくてどうしようもなくて。あのひとがおれのことを見つけてくれて声を掛けてくれて拾ってくれて。あのひとすごいきれいでしょ? 暗い路地裏に銀の光がきらきらとこぼれ落ちてそれがほんとすごいきれいで泣きたくなるくらいきれいで眩しくてだからだからね思わず。目を、閉じたんだ。



 いつのまにか太陽は紅くあかくその色を変え西に傾き、東に面した窓がひとつしかないこの部屋は途端に薄暗くなる。男はただぼんやりと座っていた目を伏せ何も見ずに。夕方の気まぐれな風が小さな窓から入り込みその白銀の髪をさらさらと撫でる。男はわずかに視線を上げ左手で前髪をかきあげようとしてそしてふとその手を止めた。枕の下に白い紙らしきものが挟まっていることに気付いて。手を伸ばし、子どもらしい大きなはっきりくっきりした文字の、父さん母さんへ元気ですか?おれは、とでだしではじまっているその紙からその手紙から男は咄嗟に目を逸らし。握りつぶした。きつく目を閉じ唇を噛みしめるきつくきつく血が滲むほどに。やはりあの時殺しておくべきだったのだ誰が何と言おうと殺しておくべきだったのだ。……お前のために。お前の言動ひとつひとつが、やがてお前自身を少しずつ確実に追い詰めるだろうからだから。両親に届くこともましてや読んでもらえることもない手紙は、しかし途中でとまったまま。てのひらの中でクシャリと音を立てる。だから殺しておくべきだったんだあの時に。お前のために。

 暗い漆黒の瞳は深い果てしなく深い闇の色。かなしいかなしい色。その目が始終嘖むように己だけに向けられる。

「ちゃんと見てよ。おれだけを見てよ。おれだけを」

 お前こそ、何を見ている? ……その目に、私はうつっているのか。
 くりかえし繰り返される押し問答は延々に平行線の一路を辿り。

 手紙を細かくちぎり握り込むと男は立ち上がり、鉄格子の窓の隙間からその手を離す。手紙のこまかな紙片が気まぐれな風に翻弄されあたりに散り散りに舞い落ちていく。嘘で塗り固められた現実は偽物の記憶で積み重ねられた現実は、こんなにも脆く儚いものなのだと。男はその軌跡をたどりながら。



 あのひとのことあいしてるんだ。心から心の底から。だからずっとあのひとのそばにいたいんだ。ずっとずっと一緒にいたいんだよ。あのひとはほんとはとてもよわいひとだから。おれがあのひとをまもるんだ絶対に守るんだ。ずっとそばにいてあのひとをだきしめてだきしめて。それでねあのひとを赦してあげるんだ。それはおれにおれだけにできること。おれにしかできないこと。



 すっかり日が落ち人工灯の光の下、男はただ座っていた。男は少年が帰ってくるのをただ待っていた。何処に行ってたのか何をしていたのかさほど気が晴れた様子もなく、ただただ憂いた表情で。少年は男が待つ部屋に戻ってきた。その暗い漆黒の瞳が男の姿を捉え、言葉無く立ちつくす。しばらくの気まずい沈黙。男はだいぶん躊躇ったのち「遅かったな」と。その目を真っ直ぐに見返しながら。暗い漆黒の瞳がこぼれんばかりに大きく見開かれる。おそるおそる部屋に足を踏み入れ男のそばに。存在を確かめるように腕の輪郭を何度もなぞるその指を掴まれ、その目をすぐ間近から覗き込まれ。ふわりと触れるだけのやさしいやさしいくちづけの合間の、音にならなかった言葉は確かに。こころの奥底へと。



 だから、だからお願いおねがい。ないしょにしといて。誰にも言わないで。あのひとに言わないで。おれに言わないで。ホントのことなんていらない。おれはあのひとのそばにいられるだけでこんなにもしあわせなのだから。すごいしあわせだからだからこのままずっとずっと。ねぇ、おねがい。ないしょにしといて誰にも言わないであのひとに言わないで。おれに、言わないで。

 「真実」なんて何の意味も持たない。 そうでしょ?



「ゆびきり」 2001.10.05
 
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