AUG.


 螺旋階段をのぼりつづける。男は果てのない終わりのない螺旋階段をのぼりつづける。いつからのぼりはじめたのか知らないしこれからいつまでのぼりつづけるのか分からなかったが、男はさして疑問も湧かず不審も抱かずただただ目の前のステップだけを見、一段一段あがりつづけていた。螺旋階段の先に果てに何があるのか分からないまま、男はのぼりつづけていた。
 カツン、カツンとブーツの厚底が螺旋階段の硬質なステップを擦り、音を響かせこだまする。光は常に中心にあり、男の歪んだ影は無機質な壁に縫いとられ吸い込まれる。



 ひとりの老婆がステップに座り込みブツブツと言葉を撒き散らしていた。濁った眼が男を捉えると、ひきもどせひきもどせと嗄れた声で繰り返す。深く皺の刻まれた細い腕が男の足を掴み、爪を喰い込ませる。ふりはらってもふりはらってもすがりついてくる。ひきもどせひきモドせ、ひきもど、してアタシをもどしてかえして返して帰して還してアタシを孵して。男は眉を顰め縋りつく老婆を見下ろし。そして小さく微かにしかし少しの迷いもなく確かに、首を横に振った。老婆は絶望し、渇望した。……つれていってアタシをアタシもつれていってつれていって。男の表情に一瞬悲しげな翳りがよぎる。男はナイフを取り出し老婆の喉元めがけてその鈍い光を放つ刃先を少しの躊躇いもなくふりおろす。空気の漏れる音と共に辺りに吹き出す鮮血。生臭い臭気に彩られたタマシイの解放。足に縋りついたままの硬直した痩せ細った指を、男はゆっくりと引き剥がす。

「………アタシを、あソコに、連れて、イッて」

 濁った眼の視線の先は深い深い深淵の闇。男は老婆の躯を抱え上げ闇の底へと静かに手を離した。老婆の浮かべる笑みは天使のように無垢で。やがて闇に吸い込まれ見えなくなる。男は再び上へ上へと螺旋階段をのぼりはじめる。


 CUG CCG GAC CGA UGU ACA CGC GAU ……


 ひとりの少年がステップの壁にもたれかかり男が来るのを待っていた。蒼い瞳に男の姿が映るやいなやはちきれんばかりの笑みで男の元へ駆け寄る。あぁ待っていたんだよずっとずっと。遅いから少し心配になったんだけれど良かったあんたは俺のところに来てくれたんだね。信じてたんだあんたとのやくそくをずっとずっと。親しげに抱きつく少年の金の髪を男はぼんやりと見下ろす。見覚えのない全く記憶にない少年の存在に僅かな戸惑いがつきまとう。

「一緒に、イこうよ」

 濡れた艶めかしい蒼い瞳には男の過去だけが映し出されていて、背筋にぞくりと悪寒が這い上がる。少年を無理矢理引き剥がす。横をすり抜けようとした男の黒髪に少年は指を絡めながら。だめだよ。この先に行ってはだめだよ。その黒髪を口唇にふくんで上目遣い。ねぇ俺と一緒にイこうよ。やくそくしたでしょ? なおも絡みついてくる細い腕をふりはらい、男はその細い頸に手をかけゆっくりと力をこめる。少年の白い美しい肌には、血は紅い血は相応しくなかったから。男はその手に力を込める。少年は生を受けたばかりの雛鳥のように弱々しく躯をふるわせ、やがて糸の切れたあやつり人形のようにゆっくりと男の腕の中に倒れこんだ。男は愛おしそうに少年のこときれた躯を腕の中に抱えて。その紅い口唇に優しいやさしいキスを。虚空を過去を眺める蒼い瞳から一筋の涙がこぼれ、男は右の人差し指でぬぐうとそっとその瞼をとじてやった。細い指に絡み取られたままの黒髪を一房ナイフで切り、少年の胸の上に。そっと綺麗なきれいな痩身をステップに横たえ、男は再びのぼりはじめる。果てしない螺旋階段を上へ上へと。



 名前を呼ばれ振り返ると年老いた老夫婦が互いの躯を支え合いながら立っていた。涙を浮かべ。もどっておいでもどっておいでと。手招きをする。さぁ私の中にもどっておいで。私達の中にもどっておいで。あなたは私のものなのだから。あなたは私達のものなのだから。もどっておいで私達の元へ。男は悲しげな表情で彼らに背を向け、螺旋階段をのぼりはじめる。

 闇は、すぐそこまで追いついていた。


 AGU UUU UAC GAA CAU ACG GAA CAC ……


 男は知っていた。この先に進めるのは螺旋階段をのぼりつづけることができるのは自分だけなのだと。誰もその先に行くことが出来ぬしましてやその先を伺い知ることも叶わぬことを。だから誰もが男を罵り、涙を流し、縋りつき、ひきとめる。
 幾人もの人とすれ違ったが、男はひとりだった。男はまだひとりだった。男は気付いていた。男は忘れていなかった本当は最初からきっと。男は探していた。男はもとめていた。心の底から。心の全てで。



「お願い。あのひとを、助けて」

 小さな黒髪の少年が全身を紅いあかい血に染めて、暗い漆黒の瞳で男の魔晄色の瞳を見つめる。お願い。あのひとのそばにいて。あのひとを守って。あのひとを抱きしめてあげて。お願い。小さな両の手を胸の前に組んで。願う。祈る、一心に。
 男は、頷いた。

「急いで、闇が。もう、すぐそこまで」

 少年の指先にそって振り返ると、螺旋階段はもうすぐそこまでくずれはじめていた。男はもう一度頷くと少年の黒髪をかるく撫でて、その横を通り過ぎる。ステップを踏む足に力を込める。己の進む先は初めから決まっていたのだ。もう迷いも躊躇いもなかった。男は螺旋階段を上へ上へとのぼりつづける。

「間違えないで。進化の先に待つものは、「神」なんかじゃない。忘れないで。あなたはおれで、おれはあなたなのだから」



 花を売る女が男の腕をするりと絡めとる。
「お花、はいかが?」
 綺麗な口唇がきれいな笑みを形作る。男は先を急ぐからと女の腕をもどし背を向ける。

「……これ以上進めば、もどれなくなるわよ」
「知ってる。……でもおれは、」

「ねぇ可愛いでしょ? 一輪1ギルよ。いかがかしら?」
 男の声を遮って、女は色とりどりの可憐な花が咲き乱れる籠を見せる。その無邪気な笑みにおもわず笑みが洩れる。「貰うよ」 尻ポケットから紙幣を取り出し、女にさしだす。
「サービスするわ」
 女は紙幣を受け取らず男の手に花籠を押しつける。男は困惑した面持ちで花籠に目をやりあわてて正面に戻すと、その視線の先にはもうすでに女の姿はなかった。男は手持ち無沙汰に籠の中の花を眺め、やがて色とりどりの可憐な花々を宙に放り投げた。花は優美な螺旋を描きながら、くるりくるりと舞い落ちていく。


 UCA CCU AUG GUG GAC CGA CAC UAA ……


 舞い落ちる花々の先に、銀色の美しい光。同じステップに銀の光と漆黒の闇が、まるで表と裏のようにさかさまに、立ち止まる。銀の美しい男は、黒髪の男は、宙に舞う花々に魅入られ、その足を止めた。ふたりの呼吸が鼓動がピタリと同調し重なりあう。ふたりはただ漠然とした不安を抱き、それぞれの後ろを、来たみちを振り返る。しばしの躊躇。そして視線を戻すと行くべきみちを、先を見据え。全く逆の方向に、足を踏み出す。ふたりはすれ違う。お互いの存在に気付くことのないまま。すれ違う。銀の美しい男は、闇に向かって。黒髪の男は、光に向かって。足を踏み出す。お互いの存在を求めながらも決して得られることのない、それぞれのみちを。未来を。結末を。


 UAA UAG UGA.



 いつか、その先に辿り着いたら。
 私は、きっと。

 お前だけの、「神」になる。



「螺旋階段」 2001.09.29
 
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