限りなく透明に近い蒼いあおい空に。
 澪を標す真白き風。
 永劫の静謐の中で。

 銀の、美しき。
 孤独な魔物は―――



* * *


 エルジュノン神羅会員制BAR。男はカウンタで気怠げに肘をついて。左の細く長い指が執拗にグラスを弄び。琥珀色に染まった氷がカラカラと。薄暗い安物の人工灯の下でさえ輝きを少しも損なわない銀の髪が。豪奢に。誰かがコインを入れて選曲したジュークボックスから。哀れな女のラヴソング。一人の男を想って恨みがましく歌う様は。いっそう滑稽で。何故か胸が痛む。無性に酔いたい気持ちになるけれど。バカ高いだけで水のような安物酒では。悪酔いするばかりで。気が滅入る。ジュノンにこの男の居場所はなく。いやこの地上何処を探しても安らげる場所などなく。何処を探しても。この男には。銀の魔物には。あるはずもなく。

「あれ、旦那?」

 振り返ると黒髪の青年。まだ年若い2ndソルジャー。断りも無しに。隣に腰掛け。バーテンにキープボトルを。執拗な粘着質な視線がふと逸れて。無意識に肩で息を吐く。躯がかるくなるいつもこの男が傍にいるといつも。人なつっこく。明るく。陽気で。面倒見が良く。優しくて。それが自分だけに向けられるものではなく誰に対してもそうであるのは。十分わかっているのだけれど。十分に。手元のグラスに視線。アンタでもそんな安い酒飲むんだァ? ニヤニヤ。グラスの中身一気にあおるとまじぃと顔を顰める。その様子に少しだけ笑みが。漏れて。つられて爽やかな笑みが零れ。グラスに強い芳香を放つ琥珀色の液体を注ぎ。差し出される。云うこと無しの。銘柄。自分と同じ嗜好が。何だか少し。……嬉しくて。

「めずらしいね。アンタがジュノンにいるなんて」
「任務だったからな」
「ふぅん」
「お前こそ、どうしてここにいる?」
「俺? オフだよ。休暇中」
「そうか」
「……なぁセフィロス。任務は、いつまで?」
「もう終わった」
「へ? そうなの?」

 あぁ。頷きながら琥珀色の液体を流し込む。心地よい喉越し。そっか。男は曖昧な笑みを向け。グラスを取り上げ残りを飲み干すと。出よう。と、促す。眉を顰めながらも。せかされ、男は腰を上げる。バーを後にする。

「……ザックス。何処に行くつもりだ?」
「着いてからの、お楽しみ」

 海からの湿った風が銀の髪を気持ちよさそうに撫でるのを。そのままに。それに比べ纏まりの悪い黒髪を。風はまるでからかうように弄び。男は鬱陶しげに抑える。明るい月夜に。銀の魔物は。前を歩く男の足下から伸びる、細い影を。ひたすら眺めて。眼を細める。『影喰い』。影を喰えば、その者の魂を手に入れることが出来るという。馬鹿げた戯言だけれども。それでも。もし……。



 港に着く。出港間際の運搬船。慌ただしげに動く人影。こちらに気付きその姿を認めると。誰もが目を見開いて手を止め。あわてて敬礼の姿勢を。黒髪の青年は兵達に頻りに檄を飛ばす隊長に親しげに声を掛け。なにやら話し込み。嬉しそうに戻ってくると。船に乗ろう、と促す。

「コスタ・デル・ソルに行くのか?」
「うん。もうすぐ出港するって」
 早くと急かされ。腕を引っ張られる。男は溜息を吐くと。おとなしくされるがままに任せた。



* * *


 海の上。忙しげに動き回る兵達の。仕事の邪魔にならぬよう船尾の甲板に腰を下ろし。先程の隊長からの。差し入れ。上等のボトルを。お互い取り合いながら。酒を飲む。月を眺める。大きな黄金色の満月が。煌々と。綺麗で。黒い海に光の道を標す。

「……ガキの頃さ。月が恐かったんだ」

 ほら。追いかけてくるだろ? どれだけ走っても。ずっと視られてるようで。恐くてサ。よく泣いてたよ。少し酔いが回って。微かに上気した横顔が。照れくさそうに。故郷の話を。その様に無性に苛立った。懐かしそうに月を眺める、その魔晄色の瞳には。当然自分の姿が映ってないから。苛つく。戸惑う。男には。銀の魔物には。懐かしむような想い出など。あるはずもなく。

「……故郷って云うのは、どんな気分なんだ……」

 小さく小さく呟く言葉は。誰にも届くことなく。



 隊列を組み命がけで飛び続ける渡り鳥が。月を渡り。やがて暗闇に姿を消す。
 己の意志ではどうにもならない逆らえない大きな力に支配され。飛び続ける鳥達が。
 哀れで哀れで哀れで哀れで哀れで。……愛おしくて。

 今日。ザックスの1st昇格が完全に決まった。
 英雄セフィロスのパートナーとして。またセフィロス隊の副官として。
 一週間後。彼の1stとしては初めての。任務が。
 ニブルヘイムへ。

 運命の歯車を。回り始めた運命の歯車を。
 誰にも止めるすべなど。逆らえるすべなど。あるはずもなく。
 誰にも。



* * *


 運搬船がコスダ・デル・ソルの港に着く。深夜も過ぎ。賑やかな港町もひっそりと眠りに落ちている。波の音だけがやけに大きく。町を抜け。月明かりの下。海岸を。波打ち際を歩く。幾つもの岩場を越え。昼間でさえ誰も足を踏み入れないであろう奥まで。遠くまで。歩く。やがて。足を止める。大きく張り出した岩場は。海が見渡せた。水平線まで。どこまでも。数歩先は。思わず足が竦むほどの。断崖で。砕ける波濤が。激しく。身震いするほどの。響くその音が。恐ろしく。吸い込まれそうになる。惹き付けられる。

「イイ場所だろ?」
 岩場に腰を下ろしながら。黒髪の青年の問いに。曖昧に言葉を濁らす。
「……よく来るのか?」
「……ときどき、かな」

 らしくない儚げな寂しげな笑みを向けられ。息を呑む。言葉を失う。男の。疲れ果てた痛々しそうな表情は。まるで死者のように蒼白で。思わず目を背け。眼前に広がる海に視線を逸らした。黒い暗い闇のような海原は。確かに雄大で素晴らしくはあるけれども。この男は。一体何のためにここへ来るのだろうか。この光景を眺めながら何を想うのだろうか。仄かな月光に照らされた表情のない横顔を。一瞥して。

 波濤が。足下から這い上がってくる波の音が。気に障る。思わず耳を塞ぎたくなるほどに。悲鳴。そう悲鳴だ。波の悲鳴。怨念。死者の。無念の叫びが。まとわりつく。縋りつく。嘖むように。

―― 何故。何故殺したの、と。 死にたくなかった、と。 イタイ、と。

 慟哭。死者の。深い悲しみ。殺された者たちの。酷い憤り。怒り。この手で。殺した者たちの。命を奪った者たちの。叫びが。気が狂いそうだ。震える指をぎゅっと握り込む。爪が己の膚に。喰い込むほど。そして。ふと気付く。この男を。一刻も早くこの場所から引き離さなければならないことを。この音から。悲鳴のような波の音から。耳を塞がさなければならないことを。一刻も早く。そうでなければ。この男は……。

「……知ってると思うけれど。……俺。1st、になるンだって。今日聞いて。……アンタと一緒。目標だったからさ。ずっと。給料も上がるし。嬉しいんだよ。もちろん。…………でも、」

 淡々とした声で。途切れ途切れの言葉が。波音に消されそうで。男は。銀の魔物は。必死に耳を澄ます。
 乾いた笑み。空っぽの。笑顔が。歪む。震えのとまらない躯を。思わず抱きしめ。腕に。力を込める。嗚咽の合間に。苦しげに息を言葉を吐く黒髪の青年を。必死で抱きしめる。全てを。受け止める。銀の魔物には。何のすべも持ち合わせていなかったからだから。ただ。必死に抱きしめた。躯を。言葉を。全てを。



 東の空は。
 限りなく透明に近い蒼いあおい色へと。ゆっくりと。変化し。
 澄んだ真白き風が。澪を標す。
 空と海の境界線まで。真っ直ぐに。澪を、標す。

 永劫の静謐の中で。
 黒髪の無垢で罪深き青年は。手を差し伸べ。
 銀の、美しき。孤独な魔物は。愛おしそうにその手を取った。
 銀と黒の二つの影は。一つに混ざり合い。

 ――― そして。



* * *


 薄汚れたスラム。小さく蹲る男に。小さな子供が。母親の手をはなれ。駆け寄る。頭からすっぽり被っていたフードに。小さな手がかかる。金の髪がこぼれ落ちる。子供はその顔を覗き込む。整った顔に表情はなく。呻き声を洩らす蒼白な唇。何の像も映し出さない瞳が。蒼くあおく。魔晄色に光る。子供の元に駆け寄った母親が。あわてて男から我が子を引き離す。男の魔晄色の瞳に。憎悪の視線を。

「ねぇママ。このお兄ちゃん、どうしたの?」
「……銀の魔物がね。連れて行っちゃったのよ」
「銀の、マモノって。コワイひとなんだよね?」
「そうよ。悪い子をね連れて行っちゃうのよ。……このお兄ちゃんみたいに」
 ほら行くわよ。母親は子供の手を強く引く。子供は半分引きずられながらも。振り返り。相変わらず俯いたままの男を。眺める。顔を傾げる。



「変だよ。……このお兄ちゃん。とても幸せそう。銀のマモノに連れて行かれちゃったのに」


「澪を標す真白き風」 2001.07.31
 
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